「いいな、紫苑。笑顔だぞ。笑顔」
 傍らでネズミが言う。

「そんなに硬くなるな。むちゃくちゃ顔が強張ってるじゃないか。それじゃ、ただ歯を見せてるだけだ。もっと自然に、愛想よく微笑むんだよ」

 紫苑は思いっきり顔を顰(しか)めて見せた。
「うるさいな。これで精一杯なんだ。自然な愛想笑いなんてできるわけないだろ。いてっ」
 ネズミに耳を引っ張られる。軽く摘ままれただけなのに、身が縮むほど痛い。

「できるできないじゃなくて、やるんだ。あんたの愛想笑い次第で、今夜の夕食の内容が、どれほど豪華になるか考えろ。いいな、しくじるなよ」
「きみが夕食のメニューに拘るとは思わなかった」

「食事は大切さ、紫苑。間違いなく生きる糧になる。少なくともおれは、真理を説く説教より焼き立てのパンの方に何倍もの魅力を覚えるがな。ほら、上手くやれ」
 ネズミは紫苑の肩を軽く叩き、数歩分、退いた。

 西ブロックの市場。その一画にあるパン屋だった。パンの他にも雑多な商品を扱っている。もっとも、この市場では肉屋が肉だけを、魚屋が魚だけを商うわけではない。
 その日、手に入ったあらゆる物を店先に並べ、売る。豚の頭や山羊の後ろ脚の横に、壊れかけた壷やぼろぼろのマントが置かれていたり、材料が何なのか見当もつかないごった煮の傍で、痩せこけた鶏が丸ごと一羽、ぶら下がっていたりするのだ。

 どんな品であっても購(あがな)える者は恵まれている。金がなくパンの欠片さえ手に入れられない者たちが店の前で、山羊の後ろ脚に見入り、ごった煮の匂いに生唾を呑み込む。店の主たちは、大声を上げ、棍棒を振りかざし、そういう人々を容赦なく追い払った。

 パン屋は市場の中では比較的構えの大きな店で、それなりに食料品を揃えている。その店の奥から、太り肉(じし)の女将が現れた。膨らんだ布袋を手にしている。
「小麦粉、これくらいあればいいかい」
 女将が布袋を手渡してきた。かなりの重さだ。

「えっ、こんなに?」
「そうだよ。あんたの小麦粉さ」
「でも、これじゃ、渡したお金ではとても足らないですよね。あの、女将さん‥‥‥」
「サーシャ」
「はい?」
「名前だよ。わたしのね」
 パン屋の女将、サーシャが自分の盛り上がった胸に手を添える。

「おまえさんは?」
「はい、し、紫苑と言います」

「まあ、いい名前じゃないか。あんたにぴったりだよ、紫苑」
「あ、はい、ありがとうございます。でも、えっとスーシャさん、ぼくはお金を持っていなくて、お渡しした代金以上には払えなくて‥‥‥」
「”ス”じゃなくて、”サ”だ。サーシャ、名前を間違えるな。それと、笑顔」
 ネズミが背後で囁(ささや)く。

「あ、そうか、あの、サーシャさん、そういうわけで‥‥‥」

「”さん”はいらないよ。サーシャでいいから。それと、小麦粉はおまけさ。今、混ざり物のない小麦粉は、とんでもなく高値だからね。あんたが渡してくれたお金じゃ、この半分も買えないよ。若い男が一日にパン半切れしか食べられないなんて、気の毒だものね。あ、そうだ、この卵と牛乳もおまけしてやるよ。バターも少しだけね。パンケーキでも焼いて、お食べな。ほら。遠慮しなくていいよ」

 サーシャが、卵を三個と壺に入った牛乳を押し付けてきた。
「あ、でも、あの昨日もチーズをおまけしてもらったし‥‥‥」
「ふふ、そうだったね。でも、あれくらいじゃ、とても足らなかっただろう。かわいそうにねえ。こんなに若いのだもの、お腹が空くのは辛いよねえ」
 サーシャの手が伸びて、指先が紫苑の頬に触れた。
「でも、滑らかできれいな肌をしているじゃないか。髪も白髪なのに艶があってきれいだよ。で、この痣(あざ)はどうしたんだい。珍しい形だね。昨日から気になってたんだ」
 指先が赤い痣をすっと撫でた。思わず後退りしそうになったのに、ネズミが背を押し返す。

「あの、えっと、その‥‥‥いろいろあったものですから」
「そうかい。まっ、誰でもいろいろあるからね。この痣、身体にもあるのかい」
「は、はい。まあ、ずっと続いているというか‥‥‥」
「おやまあ、紅い蛇が巻き付いているみたいに?」
「‥‥‥かも」

 サーシャがにやっと笑う。笑い返そうとしたけれど、口が上手く開かなかった。
「あの、あの、サーシャさん、本当にありがとうございます。でも、おまけしてもらうばかりじゃ心苦しいので、ぼくに何かお手伝いできることがあったら何でもやりますけど」

「まあ、紫苑。あんた、とてもいい子だね。そうだねえ、それじゃ、ドアの修繕とか頼めるかねえ。裏口と寝室のドアの蝶番が外れてしまった上にノブの調子も悪くてさ、難儀してたんだよ。あんたが修繕してくれたら助かるよ」
「蝶番とノブ、ですね。それくらいなら、何とかできると思います」
「ふふ、そうかい。じゃ、今夜、店を閉めてから来てくれるかい」

「え、でも、夜は無理でしょう。ランプの明かりじゃ細かな作業ができない」
 西ブロックに電気は通っていない。夜の明かりはランプに頼るしかなかった。ランプの仄明るさだけで作業を進める自信がない。
「明日はイヌカシのところで穴掘りしなくちゃいけないし‥‥‥明後日、明後日の朝でいいですか、サーシャ。朝早く、店を開ける前に来ます」

 サーシャが顎を引く。目を見開き、紫苑を見詰める。それから、声を上げて笑い出した。
「あははははは、こりゃあ、ステキだね。明後日の約束なんて、これまで一度もしたことがなかった。ははは、そうかい、わかったよ、紫苑。明後日の朝、来ておくれ」
「わかりました」

「待ってるよ。寝室のドアは特に調子が悪くてね」
「はい。たぶん、ちゃんと直せると思います」
「ちゃんと、ね。ふふ、明後日の約束、楽しみだね」
 紫苑の後ろで、ネズミが密やかに息を吐いた。

「えー、あの女将が卵や牛乳をおまけしてくれたって」
 イヌカシが黒目をくるりと動かす。
「信じられねえな。市場でもケチで有名な女将だぜ。用心棒みてえな男を雇って、店の物を盗もうとするやつは、それが年寄りでも子どもでも容赦なく叩きのめすって女だ。それが、へえ、こんなに、おまけをねえ」

 テーブルの上に並んだ牛乳や卵を見やり、イヌカシはかぶりを振った。
 ネズミが薄く笑う。
「紫苑のお手柄さ。紫苑、あんたがやればできる子だって、改めて思い知ったよ。なかなか、見事なお手並みだった」
「いや、ぼくは別に何もしなかった。そんなに上手く笑えなかったし‥‥‥。あ、イヌカシ、卵は丁寧に泡立てて、もう少し砂糖を加えようか」

「了解。ひひっ、パンケーキだってよ。最高だね。名前は知っていたけど、食うのは初めてだ。まさか、そんな日がこようとはなあ。生きてりゃ稀に、いいことにぶつかるもんだな。あ、この卵の殻、食っちまっていいか」
 ネズミが舌を鳴らした。
「何を食おうと、おまえの勝手だがな、イヌカシ」
「何だよ。あっ、美味え」
「どうして、おまえがここにいるんだ。しかも、おれたちのパンケーキを一緒に食べるつもりでいる。何の働きもしていないのに、信じられない話だ」

「ぼくが呼んだんだ。このフライパンも砂糖も、イヌカシが持ってきてくれた。まさか、ストーブの上で直に焼くわけにはいかないだろう。砂糖を入れた方が美味しいし。それに、みんなで食べた方が楽しいじゃないか」
「みんな? 紫苑、他にも招待客がいるわけじゃないだろうな」

「うん。力河さんも呼びたかったけど連絡がつかなかった。一応、イヌカシの犬に手紙は運んでもらったけど、居場所不明らしい。あと、リコやカランたちにお裾分けしてもいいよな。あ、この小麦粉、全部使っちゃうのまずいか」
「まずい? なぜ?」
「だって、先のことを考えたら残しておいた方が‥‥‥」
 よくはないかと言いかけて、言葉を呑み込む。

 西ブロックには先のことを心配する者などいない。明日がちゃんと巡ってくると、誰も信じていないのだ。不意に、サーシャの高笑いを思い出す。
 明後日の約束を彼女は笑った。幻の約束するぼくが、おかしかったのだろう。
「明後日の約束、果たせるかな」
 呟く。ネズミが無言で肩を竦めた。

「明後日の約束? 何だ、そりゃあ」
「サーシャ、パン屋の女将さんと約束したんだ。明後日、寝室のドアを直しに行くって」
 卵の殻を摘まんでいたイヌカシの手が、止まる。瞬きを三度繰り返し、イヌカシは頷いた。
「ああ、そういうことなのか、ネズミ」
「そういうことさ」

「え? なに? そういうことって何だよ、イヌカシ」
「ネズミ、おれが混ぜるから、ゆっくり牛乳を注げよ。へへ、ほんと最高だね」
「おれが焼いてやる。こういうのは、火の加減が難しいんだ」
「ネズミ、イヌカシ」
 紫苑は声を大きくした。
「二人して、何をはぐらかしてんだ。そりゃあ、明後日の約束なんて雲を摑むようなものかもしれない。でも、約束は約束だ。サーシャはちゃんと受け入れてくれた」
「そりゃあ受け入れるさ。あの女将、若い男が大好きだからな」
 イヌカシが口の端に舌を覗かせる。

「え?」
「しかも、マッチョな、いかにも男って感じのやつより、女の子っぽく可愛くて、細身で頼りなげで素直なぼっちゃんが好物なんだよ。女を知らないなら、言うことなし。あたしが手ほどきしてあげるって、な。うんうん、紫苑、ある意味、おまえさん、サーシャおばさんの理想形じゃねえか。そりゃあ、寝室のドアを直せって言うよな」
「しかも、サーシャはあんたの身体に巻き付いた紅い痣にかなりそそられてたな。ベッドの上で触りまくられるかもなあ」

「ベッド‥‥‥」
 紫苑はよろめき、本棚に背中をぶつけた。数冊の本が落ちてくる。
 イヌカシが慌てて、小麦粉を混ぜていた器の上に伏せた。その背中に一冊の本が当たり、床に落ちる。ネズミは牛乳の壺を抱いて、飛びのいていた。

「馬鹿野郎。せっかくのパンケーキが台無しになるとこだったぞ。いてえ、もろに背中にぶつかっちまった。パンケーキ一枚、余分に食わせろ」
「駄目だ」
「うん?」
「駄目だ、駄目だ。卵も牛乳も返しに行く。や、約束なんて守れない。無理だって」
「何でだよ。頭から齧られるわけじゃなし。男好きな女将さんから、いろいろ教わってくりゃあいいじゃねえか。視野が広がるかもよ」
「嫌だ。そんな、牛乳や卵と引き換えに、そういうことをするって‥‥‥い、嫌だ」
「そうかあ。牛乳や卵どころか、小さなパン一つで身体を売る女は、男もいっぱいいるぜ。ネズミ、フライパンにバターを入れろよ」

 小さなパン一つで身体を売る。そうしないと、生き延びられない。
 イヌカシの言葉が突き刺さる。紫苑は唇を噛んだ。
 嫌だという一言が、拒否できることが、どれほど贅沢かわかっているつもりだった。しかし、つもりはつもりに過ぎず、本当には何もわかっていなかった。
「紫苑」
 ネズミが牛乳をテ―ブルに戻す。
「たぶん、約束は守れないさ」
 イヌカシが顔を上げた。表情が強張る。
 明後日の約束は守れない。おそらく、その前に‥‥‥。
 ネズミはそう思っているのか。

「サーシャが嫌なら、どういう相手だったら大丈夫なんだ」
「えっ……」
「どういう相手なら寝室のドアを直して、ベッドの上で触られても構わないんだ? 紫苑」
「そ、そんなこと、何できみに話さなきゃならないんだ」
「パンケーキを食べながら語るのには、かっこうの話題じゃないか」
「そんなこと、あるもんか。じ、じゃあ、きみはどうなんだ」

「おれ? うーん、おれはあんたと違って経験豊富だからなあ。話してもいいけど、あんたには刺激が強過ぎるかもな」
「なんだよ。自分ばかり大人ぶるな」
「事実でしょ。お望みなら、たっぷりと語ってやってもいいぜ。一晩、かかるかもしれないけど」
「へえ、そりゃあどうも。ぜひ、聞かせてもらいたい。一晩中、きみの経験談を聞くのも悪くないし。ただ、退屈だったら、とっととベッドに潜り込むからな」
「ベッドで一人寝か。ちょっと寂しいな」
「おれは毛深い相手がいい。顔をくっ付けたら日向の匂いがするような相手。けど、今はベッドよりパンケーキのことを考えろよ」

 イヌカシがフライパンを振る。ネズミがゆっくりとそこに生地を流し込む。
 甘く柔らかな匂いが立ち上った。
 イヌカシの口笛が響いた。

「最高だ。ネズミ、上手くひっくり返せよ」
「任せとけ。もだえるほど美味しい焼き方を見せてやるさ」
「どうして、そういう言い方しかできないんだ。言葉の使い方が間違ってる」
「あんたにだけは言われたくない台詞だね」
「いいから、集中しろって。一枚目はおれに食わせろよな」
 芳しい香りが広がる。ネズミは真剣な、イヌカシは嬉しげな表情をしていた。紫苑の口元も綻(ほころ)んでいる。
 人狩の前夜のことだった。

 NO.6の壁が崩壊して間もなく、紫苑は市場の跡に立っていた。
 サーシャの店は跡形もなかった。
 青く塗られたドアの残骸が日の光にさらされていた。
 約束を守れなかった。
 紫苑は青いドアの上に一輪の白い花を置いた。

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※「明後日の約束」は2025年7月1日(火)朝10時に当サイト「コクリコ」内での公開を予定しております。