
「100分de名著」で大反響! 宮崎哲弥さんスペシャルインタビュー後編
『100 万回生きたねこ』と「『100万回生きたねこ』のナゾを解く」について
2026.07.10
撮影/市谷明美
2027年10月に刊行50周年を迎える、佐野洋子の絵本『100万回生きたねこ』。世代を超えて長く愛されてきた本作について、評論家・宮崎哲弥さんが、『100万回生きたねこ』がはらむさまざまな“ナゾ”に迫る著書『『100万回生きたねこ』のナゾを解く』を上梓しました。宮崎さんへのスペシャルインタビュー後編では、『100万回生きたねこ』への思いを語ってくださいました。

『100万回生きたねこ』は多様なナゾをはらむ作品
──宮崎さんが『『100万回生きたねこ』のナゾを解く』を書こうと思った理由を教えてください。
宮崎哲弥さん(以下宮崎さん):誤解が多いんですよね。この絵本は基本的に話せばわかり合えるというのを拒否しているようなところがあるし、最終的に、左ページに「ねこは もう,けっして 生きかえりませんでした」と一文あり、右ページに「とらねこ」も誰もいない秋の草原の絵が掲げられる。この最後の見開きをみただけで私なんか心が震えますが、象徴に鈍い人にはまったくわからないままで終わるでしょうね。
おそらく、佐野さんは律儀に説明するのがイヤなのです。だから多様な読み方が生じる。『100万回生きたねこ』について論じた著名人のエッセイから学術論文までいろいろ読みましたが、私のみるところ、「その解釈だと、矛盾や齟齬(そご)が生じてしまうのではないか?」というのが多いですね。
例えば「とらねこは100万と1回目の生で真の愛を得たから、満足して生まれ変わらなかったのだ」という解釈があります。しかし「とらねこ」は満足なんかしていません。確かに彼は「白いねこ」と出会い、真の愛に目覚め、子猫にも恵まれました。いままでの、100万回の生では「死ぬのなんかへいき」とうそぶいていたのが、最後の生では「白いねこといっしょにいつまでも生きていたい」と願うようになります。しかし、この切なる願望、最も純粋な生存欲(存在欲)が満たされることはありません。
「白いねこ」は老いて死んでしまいます。「とらねこ」は100万回の生では一度も泣いたことがなかったのに、はじめて泣きます。「白いねこ」の骸(むくろ)を抱いて、「朝になって,夜になって」昼夜の別なしに100万回も慟哭(どうこく)します。
そうしてその悲嘆のうちに、「とらねこ」は、あえて仏教の言葉を使えば、悟ったのです。激しい悲嘆を経て、苦しみの生を再生産し続ける世界から解脱したのです。佐野さんは別に仏教を知っているわけではなく、仏教の物語を描いたわけではありませんが、「もはや二度と生まれ変わることはない」というのは、ブッダが悟りの境涯(きょうがい)を表現したのと同じです。
そもそも「とらねこ」はなぜ輪廻し続けたのか、という問いもあります。某書評に「生のやり直し」を求める煩悩のせいで再生する、とありましたが、この理解はある意味正しいのです。だから「白いねこ」への真の愛は、最も純粋な、最後まで残るような生存欲であり、「ラスボス」に他ならないと自著に書いたのです。それが無情についえたとき、愛というものが──どんな愛かにかかわらず──、苦からの解放の妨げに他ならないことを「とらねこ」は気づいた。そして「いつまでも生きていたい」と永生を望めば、再び輪廻の道に、苦の連鎖に戻るだけだと悟った。
愛といえば、愛情を注いでいるつもりの飼い主たちのことを「とらねこ」は“きらい”“だいきらい”だったというのも面白い。「手前勝手な愛情を相手に押し付けて、愛しているつもりになっている」「エゴイスティックな愛情を押し付けられて苦しむ」というのは実人生でもままあることですよね。
「白いねこ」は、「おれは,100万回も しんだんだぜ」「きみは まだ 1回も 生きおわって いないんだろ」と転生マウントを取ろうとする「とらねこ」の無意味な鼻っ柱をへし折ったのです。そういうところは、仲間探しを断念することで、むしろさわやかな、解放された心持ちを得た『やっぱりおおかみ』のラストと一脈通じますね。
けれど、そういうんじゃない「究極の愛」であっても、やがて悲嘆(苦)に変わってしまうことは避けがたい。『100万回生きたねこ』はそれを教えてくれます。愛はどこまで純であっても、いや、そうであればあるだけ、ピュアな存在欲であり、執着であり、煩悩に他ならないからです。
宮崎哲弥さん(以下宮崎さん):誤解が多いんですよね。この絵本は基本的に話せばわかり合えるというのを拒否しているようなところがあるし、最終的に、左ページに「ねこは もう,けっして 生きかえりませんでした」と一文あり、右ページに「とらねこ」も誰もいない秋の草原の絵が掲げられる。この最後の見開きをみただけで私なんか心が震えますが、象徴に鈍い人にはまったくわからないままで終わるでしょうね。
おそらく、佐野さんは律儀に説明するのがイヤなのです。だから多様な読み方が生じる。『100万回生きたねこ』について論じた著名人のエッセイから学術論文までいろいろ読みましたが、私のみるところ、「その解釈だと、矛盾や齟齬(そご)が生じてしまうのではないか?」というのが多いですね。
例えば「とらねこは100万と1回目の生で真の愛を得たから、満足して生まれ変わらなかったのだ」という解釈があります。しかし「とらねこ」は満足なんかしていません。確かに彼は「白いねこ」と出会い、真の愛に目覚め、子猫にも恵まれました。いままでの、100万回の生では「死ぬのなんかへいき」とうそぶいていたのが、最後の生では「白いねこといっしょにいつまでも生きていたい」と願うようになります。しかし、この切なる願望、最も純粋な生存欲(存在欲)が満たされることはありません。
「白いねこ」は老いて死んでしまいます。「とらねこ」は100万回の生では一度も泣いたことがなかったのに、はじめて泣きます。「白いねこ」の骸(むくろ)を抱いて、「朝になって,夜になって」昼夜の別なしに100万回も慟哭(どうこく)します。
そうしてその悲嘆のうちに、「とらねこ」は、あえて仏教の言葉を使えば、悟ったのです。激しい悲嘆を経て、苦しみの生を再生産し続ける世界から解脱したのです。佐野さんは別に仏教を知っているわけではなく、仏教の物語を描いたわけではありませんが、「もはや二度と生まれ変わることはない」というのは、ブッダが悟りの境涯(きょうがい)を表現したのと同じです。
そもそも「とらねこ」はなぜ輪廻し続けたのか、という問いもあります。某書評に「生のやり直し」を求める煩悩のせいで再生する、とありましたが、この理解はある意味正しいのです。だから「白いねこ」への真の愛は、最も純粋な、最後まで残るような生存欲であり、「ラスボス」に他ならないと自著に書いたのです。それが無情についえたとき、愛というものが──どんな愛かにかかわらず──、苦からの解放の妨げに他ならないことを「とらねこ」は気づいた。そして「いつまでも生きていたい」と永生を望めば、再び輪廻の道に、苦の連鎖に戻るだけだと悟った。
愛といえば、愛情を注いでいるつもりの飼い主たちのことを「とらねこ」は“きらい”“だいきらい”だったというのも面白い。「手前勝手な愛情を相手に押し付けて、愛しているつもりになっている」「エゴイスティックな愛情を押し付けられて苦しむ」というのは実人生でもままあることですよね。
「白いねこ」は、「おれは,100万回も しんだんだぜ」「きみは まだ 1回も 生きおわって いないんだろ」と転生マウントを取ろうとする「とらねこ」の無意味な鼻っ柱をへし折ったのです。そういうところは、仲間探しを断念することで、むしろさわやかな、解放された心持ちを得た『やっぱりおおかみ』のラストと一脈通じますね。
けれど、そういうんじゃない「究極の愛」であっても、やがて悲嘆(苦)に変わってしまうことは避けがたい。『100万回生きたねこ』はそれを教えてくれます。愛はどこまで純であっても、いや、そうであればあるだけ、ピュアな存在欲であり、執着であり、煩悩に他ならないからです。
『100万回生きたねこ』(佐野洋子 作・絵/講談社)より ©JIROCHO, Inc. / KODANSHA
──本を書くにあたって、ある程度の構想はあったのでしょうか?
宮崎さん:この本に関しては、ノープランで書き出し、書き進めました。ずっと考えてきたことなので、つじつまが合わなくなったり、整合性に問題が生じることはないという確信はありました。むしろ考えてきたこと以上のことを書いてやろう、という意気込みでしたね。そのように書いてみると、書いているうちに「考えている」こと以上のことを書けてしまうものなのです。執筆から10年後にそれを“発見”したりもする(笑)。ほら、小説家がよく「(書くべきものが)降りてくる」とかいいますが、思想や批評にも似たところがあるんですよ。そこが書き下ろしのスリリングで、面白いところです。
宮崎さん:この本に関しては、ノープランで書き出し、書き進めました。ずっと考えてきたことなので、つじつまが合わなくなったり、整合性に問題が生じることはないという確信はありました。むしろ考えてきたこと以上のことを書いてやろう、という意気込みでしたね。そのように書いてみると、書いているうちに「考えている」こと以上のことを書けてしまうものなのです。執筆から10年後にそれを“発見”したりもする(笑)。ほら、小説家がよく「(書くべきものが)降りてくる」とかいいますが、思想や批評にも似たところがあるんですよ。そこが書き下ろしのスリリングで、面白いところです。































