絵本作家・北見葉胡の半世紀 登園拒否ぎみの幼稚園時代を母は見守ってくれた
講談社絵本新人賞選考委員・ボローニャ国際児童図書賞受賞作家が絵心を育てた60年を語る
2023.08.06
登園拒否ぎみな幼稚園時代。母は超マイペースな私を見守ってくれた
絵本作家の北見葉胡(きたみ・ようこ)さんに、はじめてのぬりえ絵本『花ぬりえ絵本 不思議な国への旅』の刊行にあたって、絵本作家になるまでのお話をうかがいました。
北見葉胡さん(以下北見さん)は、絵本『ルウとリンデン 旅とおするばん』で、優れた児童文学作品におくられる世界的な児童文学賞、ボローニャ国際児童図書賞を受賞しています。
『マッチ箱のカーニャ』、「はりねずみのルーチカ」シリーズや「りりかさんのぬいぐるみ診療所」シリーズなど、たくさんの作品を精力的に刊行し、優しくあたたかい絵で、子どもから大人まで人気があります。現在は、講談社の絵本新人賞の選考委員を務め、新人発掘のお仕事もしています。
小さいころから絵を描くのがお好きだったのでしょうか?
──小さいころから絵を描くのがお好きだったのでしょうか? 小さいころのお話をお聞かせください。
私の母は、「あなたはとても手のかかる子だった」が口ぐせです。同時に「あなたのような子でもそれなりに育つのね」とも言っていました。これから思いつくままお伝えすることにいたします。小さいころのことはあまり覚えていないので、おもに母から聞いた話です。
幼稚園には、登園拒否ぎみながらなんとか通っていました。しかし、幼稚園の私の様子を見た近所のかたからの「爆弾発言」によって、母は奈落の底に突き落とされることとなります。
近所のかたがいうには、幼稚園で全員でお遊戯などをしているなか、「ようこちゃん(注:北見葉胡さんのこと)だけがぼーっと立ちすくんでいた」とおっしゃるのです。
母が、先生に状況を聞くと「ようこちゃんは、毎日そうです」というお返事でした。わたしは、身体が弱く年中高熱を出していました。マイペースで何をするにも一番最後までかかります。母や先生は、きっといろいろな声がけをしてくれたと思いますが、その努力も空しくずっとのんびりとした調子だったそうです。
先生のお世辞一つで60年絵を描き続けることができた
幼稚園時代のことは、あまり覚えていないのですが、たったひとつだけよく覚えていることがあります。ある日、黒板に一人で絵を描いていました。
その絵は、家を立体的に描いて庭や門、植物とか道を、おもいついた夢想のままにひたすら増殖していく、というたぐいのものでした。描きあげてトイレに行って戻ってくると先生の「この絵描いたのだれ?」という声が聞こえ、「おこられるのかな……」と緊張した私は、身を固くしつつ小さく手を上げました。すると先生は「すごい! 上手ねえ」と何度もおっしゃったのです。
親にも先生にも心配されるばかりで、ほめられたことがほとんどなかった私は、先生のお世辞をまにうけて、自信をもちました。おかげでその後、60年、のほほんと絵を描き続けることができたような気がします。
「宿題」の意味もわからなかった小学生時代
幼稚園の2年間をぼーっと過ごしていた私が、小学校に入ったからといって変わるわけもなく、休み時間も席に座ったまま、じっと活発に遊ぶクラスの子たちを、眺めてすごしました。
「なんで自分だけ友だちができないんだろう?」と悩むほどの賢さがあれば、もう少し早く友達ができたのでしょう。私はじっと座っていることに全く苦痛を感じませんでした。友だちがいなくて寂しいとか辛いとか一切思わない子どもだったのです。
そんななか、母は担任の先生に呼び出されました。「クラスのなかでようこさんだけ、一度も宿題をしてこないんですが」と聞かれたそうです。母は、私に「なんで宿題しないの?」と聞くと「しゅくだいってなに?」と質問したそうです。小学1年生の私は、「宿題」という言葉の意味がわからなかったのです。
しかし、その後も宿題を忘れつづけていました。ランドセルを学校に置きわすれて手ぶらで帰ってくることもしばしばあったそうです。先生の話を聞かないので、「明日の持ち物」もわかりません。しょっちゅう、忘れ物をしていました。
忘れられないお弁当の海苔の香り
ある日先生が「明日は給食がないので、お弁当を持ってくるように」とおっしゃったのを、私はたしかに聞いたのです。私は家に帰ると、さっそく母に報告しました。
母は、私がめずらしく先生の話を聞いていたことを喜び、次の日朝早く起きてお弁当をもたせてくれました。ところが、お昼になると、いつもどおりに給食係が、給食の準備をはじめだしました。「まちがえた?……」と思った私は、机の中にいれておいたお弁当をまわりに気づかれないよう全神経を注いでランドセルに戻しました。
そのとき、海苔の敷きつめられた母の愛情いっぱいのお弁当から海苔のいい香りがただよってきて、あせりをますます強めたことを思い出します。まれに先生の話を聞いたと思ってもこの調子でした。
こまったことがあっても親に相談できない
小学3年生になっても、私はずっと一人のんきな小学校生活を送っていました。しかしその均衡が3年のクラス替えによって破られることになります。
一人ぼっちの私に声をかけてくる子が現れました。断る理由もないままその子と遊んでいるうちに、何の主張もしない私は「教えた歌を覚えない」とビンタされたり、「洋服を汚した」とたびたび洗濯代を要求されたり、いまから思うと完全に「いじめ」られるようになってしまいました。でも親には言わなかったのです。どうしてでしょう。そのころの自分の気持ちを思い返すと「親に言う」という選択肢を思いつかなかったんだと、想像します。
「親にいじめられたと言えない」のではなく「親にこまったことを言うものだとは知らなかった」ということです。もし、私のようなマイペースなお子さんをおもちの方はさりげなく「なにかイヤなことはない?」「困ったことがあったらなんでも言ってね」と聞いてあげるとよいかもしれません。
私の場合ですが、「親に心配かけないように、いじめられていないと噓をつく」知恵のはたらくような子ではなかったので、親に「この傷はなに?」とか「イヤなことはない?」と聞かれたら、素直に話したのではないかと思います。