
「能力」は環境によって変わる
──「能力が測れない」とはどういう意味でしょうか。学校での成績や受験の結果などは、その人の能力を客観的に示すものでは?
勅使川原真衣氏(以下勅使川原):テストの点数は、ある日・ある時間帯の「できた/できない」を切り取ったものです。その日は体調が悪かったかもしれないし、次の日にはできたかもしれない結果です。
通知表では、授業中の「主体性」や「創意工夫」なども評価の対象になりますが、これらは先生が抱く印象に大きく左右されます。それにこうした「主体性」は、一緒に学ぶクラスメイトや先生との関係でも変わってきますよね。自分の意見を聞いてくれる、話しやすい人なら積極的に学習に取り組みます。
つまり、私たちが「その人の能力だ」と認識してきたのは、実はものすごく「環境に依存するもの」だったということです。日々揺れ動いているのに、ある状態(テストや評価をした日)だけを切り取って、「あなたの能力はこれくらいですよ」と乱暴に決めつけているんです。

勅使川原:私たちは人の内面に「確固たる能力」があると思っていますが、実はそんなものは存在しません。周囲との関係性、誰と何をどのようにやるのかで自分のあり方、発揮できる力は変わります。
──でも、世間は能力の存在を前提として動いています。学校はもちろん、職場でも能力を高めることが、成長につながると思ってきましたが……。
勅使川原:「そう信じさせられている」といったほうが、正確かもしれませんね。そのあたりを理解するためにも、「能力主義」についてもう少し詳しく説明しましょう。
能力主義とは、「この世の限りある資源を、『能力』に基づいて配分する原理」です。能力のある人が多く収入を得る仕組み、ともいい換えられます。
それ以前は、「身分社会(主義)」の時代。近代化の過程で身分社会は廃止され、その代わりに登場したのが「能力主義」でした。能力主義なら、生まれで職業や収入が決まるという人々の不満を解消することができますから、社会を統治する制度としては安定感がありました。
──当たり前すぎて深く考えたことがなかったです。特に問題があるとも思えませんが……。
勅使川原:でも、先述のように能力が何かと問われると、結局、実体はよくわからない。なんとなく平等だと思っているけれど、実はそうでもないですよ、と指摘した学問があるんです。それが「教育社会学」で、私が大学院で学んでいた分野です。
能力主義は、現状では社会のあらゆる場所に浸透しています。それだけ、巧妙に作られたカラクリともいうことができるのです。
──巧妙に作られたカラクリ、ですか。
勅使川原:能力主義の元では、さまざまなことが「個人の問題」にすり替えられ、矮小化されてしまいます。
学校や仕事でうまくいかないとき、私たちは自分のせいだと考えがちですよね。その上で「もっと頑張ろう」と奮起するか、「自分の能力が低いからしかたない」と諦める。他人にも同様に、「努力が足りないからだ」と厳しい視線を送ります。
本当は個人ではなく組織の側に原因があるかもしれないのに、多くの人は不満を表明したり対応を求めたりはしません。それどころか、「もっと、もっと」と勝手に頑張り続けてしまう。こうした状態は、企業や学校、組織にとっては願ったり叶ったりです。
つまり能力主義は、「統治する側」が作り出した自分たちに都合のいい仕組み、なのです。「個人の中に能力があり、高めなければならない」こと自体がフィクションであり、それを利用している人たちがいることに、私たちはそろそろ気づく必要があります。