

14年ぶりに続編を刊行した『NO.6[ナンバーシックス]再会』シリーズ。
1冊目の『NO.6[ナンバーシックス]再会#1』は、Amazon1位(SF・ホラー・ファンタジー6月6日調べ)、ジュンク堂池袋本店総合1位(2025年6月2日調べ)、トーハン週間ベストセラー文芸書2位(2025年6月3日調べ)と、輝かしいスタートを切りました。
2作目の発売を祝して、あさのあつこさんが書き下ろしたショートストーリーを、本記事で無料公開します! タイトルは「ぼくはまだ、きみを知らずにいた」。ネズミに出会う前の紫苑と、前シリーズに登場していた沙布(さふ)のお話です。

「ぼくはまだ、きみを知らずにいた」
雲が流れている。
かなりの速さだ。上空では、そうとう強い風が吹いているのだ。いや、空だけではない。地上も湿って重い風に包まれようとしていた。
ぼくは足を止め、ふと頭上を仰いだ。
まだ、夏の名残を留めた深緑の葉が、枝先にびっしりついている。そして、風に揺れる度に乾いて騒々しい音をたてた。
さらに遠く、枝の彼方に目をやれば、あちこちが瘤状(こぶじょう)に盛り上がった黒雲が、流れ、奔(はし)り、ぶつかり合い、うねり、空を覆いつくそうとしている。
「紫苑(しおん)? どうしたの」
「うん、空が……」
「空?」
一緒に歩いていた沙布(さふ)も、視線を上へと向ける。そして、軽く身震いをした。
「凄い雲ね。気味悪いわ」
「……何か起こりそうだ」
「え?」
「何だかわからないけど、何かが起きる。そんな気がするんだ」
「まっ、紫苑ったら」
沙布が噴き出した。彼女独特のからりと明るい笑い声が響き、風音に混ざる。
「台風が近づいて来てるのよ。しかも、かなりの勢力の。直撃する可能性は94.6%。ただ、上陸後五時間から六時間で通り過ぎる可能性も95%以上なんだって。つまり、今夜中にはNO.6から消えてしまう。でしょ?」
「ああ……うん、まぁ」
「しかも、翌々日には熱帯低気圧になっちゃうらしいわよ。わたしたちには、ほとんど影響なんてないじゃない」
「かもな」
ぼくも沙布も、高級住宅街となるクロノスの住人だ。住宅、医療、教育、その他生活に関わる全てを市当局から保障されていた。
市から知能面で最高ランクと認定された者、高官、財界人、市に多大な貢献があったと認められた人々……。クロノスは選ばれた者たちだけに許可された居住地だった。当然のことながら、住宅環境は完璧に近く整っている。ぼくが母さんと暮らす西外れの家も沙布とお祖母さんが住む東側の家も、さして広くはないが最先端の生活設備が整っていた。
空気は常に浄化され、室内の温度と湿度は自動的に最適値に保たれ、警報システムは二十四時間完備されていた。どれほどの威力の台風であっても、暴風雨であっても、酷暑や厳寒であっても室内にいれば、沙布の言う通り“ほとんど影響なんてない”のだ。
前髪が風に弄(いじ)られる。
ぼくは唇を嚙み締めた。
ほとんど影響なんてない。
わかっている。でも、感じる。感じてしまうのだ。
この台風が、この雲が、この風が、ぼくを変えてしまう。今、枝先からもぎ取られ、中空へと舞い上がった木の葉みたいに、ここではないどこかへと、ぼくを運んでいく。
ずくっ。
胸の奥が疼(うず)いた。怖くはない。むしろ、高鳴る。高鳴りの疼きだ。
「紫苑?」
沙布が顔を覗き込んできた。短い髪がさらりと揺れて、黒い眸(ひとみ)が瞬(まばた)く。こういう表情のとき、沙布は十二歳という実年齢より、ずっと大人びて見えた。
「何を待ってるの」
「え? 待ってる?」
「うん。そんな顔してるよ」
我知らず、頰に手をやっていた。ひやりと冷たい。
「何かを待ってるって……そんな顔してた?」
「そうね。何かを……あるいは、誰かを待っている。違うの?」
今度は、ぼくが沙布を凝視してしまう。
何かを、あるいは、誰かを待っている?
そんなこと、考えもしなかった。ぼくには、待たねばならない出来事はなく、相手はいない。沙布はぼくの表情を取り違えているのだ。
違うよ。と、一言告げて、かぶりを振ろう。
そう思った瞬間、また風が髪を弄くった。幾枚もの葉っぱが曇り空へさらわれていく。
「……風、かな」
ぽろりと言葉が、零(こぼ)れた。
「え、風? 風を待っているの。こんなに吹いているのに?」
沙布の口調に戸惑いが滲む。
「あ、え? いや、違う、そういう意味じゃなくて……」
そういう意味じゃなくて、何だろう。上手く説明できない。
沙布がくすっと笑い、肩を窄(すぼ)めた。
「おもしろいわね、紫苑は」
「おもしろくはないだろう。冗談とか言えないし。ぼくよりおもしろいやつも話が上手いやつもたくさん、いるじゃないか」
クラスメートの誰彼を思い浮かべて、ぼくは苦笑する。
「そうね、あなたより会話が上手な人も気の利いた台詞を言える人も、いっぱいいるわよね。でも、風を待っているなんて突拍子もないことを真顔で言えるのは、紫苑ぐらいだよ」
「それ、褒めてないよな」
沙布はぼくに答えず、空を仰いだ。
「風、すごいね。今夜は大荒れになるのかな」
「かもな。真夜中がピークになるんじゃないか」
「十二歳のお誕生日なのに、散々ね、紫苑」
「まあ、でも、こういう誕生日もいいかもな」
「風が強いから?」
「記憶に残るから」
「記憶に……そうかな」
沙布が首を傾げる。やはり、大人っぽい。二歳のときに知り合った幼馴染みで親友だけれど、このごろ、沙布のほうが一歩も二歩も先に大人になろうとしている気がする。
「十二歳の誕生日、我がNO.6は大嵐に見舞われた。そういう記憶?」
「うん、そういうこと」
「駄目よ、そんなの」
「は?」
ここで、沙布から駄目出しを受けるとは思ってもいなかった。ちょっと驚く。
「九月は台風の発生、接近、上陸が一年の内で最も多い月じゃない。飽くまで、統計上は、だけどね。でも、統計学の講座で学んだ通りに解釈すると……」
「沙布、きみが話そうとしているのは統計学じゃなくて、記憶についてだろ」
「あ、そうね。軌道修正するわ。そう、記憶の話。つまりね、紫苑の誕生日って台風にぶつかる可能性が、他の月より高いってこと。十二歳のときだけじゃなくて、十五歳の誕生日だって、二十歳のときだって、四十五歳のときだって、百一歳のときだって台風に見舞われるかもしれないでしょ」
「百一歳の誕生日か。想像もできないな。うん、でも、まあそうかもな。つまり、記憶に残そうとするのなら台風だけじゃ足らないって言いたいわけだろ」
「当たり。その通りよ、紫苑」
沙布が笑む。今度は悪戯好きな子どもを連想させる笑顔だった。
女の子って、どうしてこんなにいろんな笑み方ができるんだろう。不思議だ。どんなに頑張っても真似できない。
「紫苑、わたしね、特別コースに進んだら脳の機能について研究するつもりなの」
「うん、知ってる。きみは前からそう言ってたもんな」
沙布もぼくも選抜試験に合格し、来月から特別コースに進む。NO.6での最高教育機関の一つだ。沙布に言わせると、人の脳にはまだまだ未知の部分が多く、そこを科学的に解明してみたいのだとか。ぼくは、いずれ生態学のコースに進むつもりだ。
昔から、生物と自然の平衡には興味があった。人間を含む生物の生息可能地域が制限されてしまった今、そしてこれから、とても重要な分野になると思う。
沙布が真顔になった。
「まだ、何にも学んでいないのだから、偉そうなことは言えないんだけれど……余程のことじゃないと脳って記憶し続けられないんじゃないかな。その人にとって、とても特別なこと、いい意味でも悪い意味でもね」
「特別なこと……か」
「ええ。一生、記憶に残り、ふっと浮かび上がる……。ううん、ちがうな。消えないの。ずっと消えずに、色褪せることもなくて鮮やかなまま、あなたの内にある。そういう出来事じゃないと、ね。夜中の内に通り過ぎる台風ぐらいじゃ、すぐに忘れちゃうよ」
「ふーん、そういうもんか」
「そういうものよ。ね、紫苑。そういう記憶、ある?」
沙布が足を止め、もう一度。ぼくを覗き込んできた。
「ずっと消えないまま残ってる記憶?」
「そう。できれば、苦しかったり、辛かったり、悲しかったり、そんなんじゃないほうがいいよね。でも、明るくて楽しい出来事って、案外記憶に残らないんだよ。いつのまにか褪せちゃうの。苦しくて堪らないとか、悲しくてどうしようもなかったとか、そんな記憶のほうが生々しく残るんじゃないかな」
「それは、沙布の意見?」
「そ、わたしの独断、あるいは偏見かな。でもね、紫苑。神は脳に宿るの。わたしは、そう信じているの。そして、神は人に記憶の力を与えた」
「苦しみや悲しみを忘れないために?」
「そう、忘れないために。同じ苦しみや悲しみを味わわないために、記憶するの」
ぼくは立ち止まったまま、沙布の眸を覗き返した。
「沙布……何もないかも……」
「うん?」
「きみの言った記憶。色褪せず鮮やかなまま、自分の内にある。そういう記憶、ぼくにはないかも」
苦しくて堪らない。悲しくてどうしようもない。
忘れられない。
どれほどの年月が経っても鮮やかに残り続ける。
消えない記憶。
そんなものは、ない。
身体が震える。
自分が柔らかな、けれど強靱な繭の中に閉じ込められている気がした。その中にいる限り、暑さからも寒さからも、苦しみからも悲しみからも守られる。そんな諸々とは無縁でいられる。その代償のように、鮮やかな記憶を持つことを許されない。心を揺らせることも、幾度も思い返すことも、誰かに想いを馳せることも許されない。
繭に包まれ、従順に生きていく。許されるのは、それだけだ。
叫びたくなる。
叫び、暴れ、あらゆるものを破壊したくなる。
ぼくは、ぼくの歯で爪で、この繭を食い千切れるだろうか。引き裂けるだろうか。本物の記憶を手に入れられるだろうか。
壊せ。
破壊してしまえ。
何を?
「紫苑」
腕を引っ張られた。
「ごめん。わたし、変なこと言っちゃった?」
沙布の語尾も震えている。ぼくは慌てて、かぶりを振った。
「あ、違う、違う。変なのは、ぼくのほうさ。何か頭の中がごちゃごちゃになってる」
「紫苑が? へえ、あなたでも、思考回路が混乱したりするんだ。ふふ、それ、台風のせいかな。妙に気分が昂(たかぶ)っているのかもね。あ、じゃあ、ここで」
沙布と、左右に別れる交差点に来ていた。
「紫苑、十二歳のお誕生日、おめでとう」
別れる寸前、沙布は振り返り、微笑み、言祝(ことほ)いでくれた。
その笑顔も大人びて、美しかった。
午後四時。
予報通り、台風はNO..6を直撃した。
十年に一度の大型台風だそうだ。
窓の外は薄闇に包まれ、その闇ごと地上を揺り動かすかのように、風が唸(うな)る。強度耐性ガラスを通してさえ、その唸りが聞こえてくるみたいだ。
安定し、不穏とも変化とも無縁だった世界が崩れていく。
音を立て、崩壊していく。
『室内の湿度が6%高くなりました。除湿を行います』
環境管理システムが作動する。
胸の芯が燃えている。熱風が螺旋(らせん)になり、身体内を巡る。
これだけの嵐でさえ、NO.6を揺るがすことはできない。掠(かす)り傷の一つも作れない。
どこまでも不変、どこまでも強固。
抗(あらが)いなど誰も、考えようともしない。
ぼくは、腰かけていたベッドから立ち上がった。
叫びたい。暴れたい。ぼくを取り巻くことごとくを粉々にしたい。
抗いたい。抗い続けたい。
この嵐のように、荒れ狂いたい。
衝動を抑えられない。
どうしよう。どうすればいい。
壊せ。
破壊してしまえ。
何を?
全てを。
全て?
『温度、湿度共に適正値になりました。温度二十六度、湿度45%』
人工音声が告げる。
窓の外で風が唸っている。
少年は窓に向け、手を伸ばした。
躊躇(ためら)いはない。
大きく外へと開け放す。
風と雨を真正面から受け止める。
少年を歓喜が貫いた。
心の奥底のさらに奥で、彼は気付いていた。
今、この手で運命の扉を開いたのだと。
ネズミ、ぼくはまだ、きみを知らずにいた。
そして、ここから生涯忘れることのない記憶が、きみと共に刻み込まれていく。
ネズミ、きみはまだ、ぼくを知らない。
「NO.6[ナンバーシックス]再会」シリーズ好評発売中!

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児童図書編集チーム
講談社 児童図書編集チームです。 子ども向けの絵本、童話から書籍まで、幅広い年齢層、多岐にわたる内容で、「おもしろくてタメになる」書籍を刊行中! Twitter :@Kodansha_jidou YA! EntertainmentのTwitter :@KODANSHA_YA_PR
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