第44回講談社絵本新人賞受賞作家 みやもとかずあきの制作日記①(4コマ漫画つき)

絵本作家デビューするまでになんと30年かかったよ!の巻

作家:みやもと かずあき

制作日記 第1回

さいごのコマの緑のメガネの男性がみやもとかずあきでございます。
はじめまして。『福の神』で第44回講談社新人賞をいただきましたみやもとかずあきです。

受賞したとき、59歳でした。現在60歳。還暦で、ついに絵本作家デビューを果たすことになったのです! 50代での受賞はかがくいひろしさん以来だそうです。

ここに至るまでは本当に長かった……。というのは実感ですが、途中で諦めようとと思ったことは一度もありません。30歳のころに入った生命保険のおまけについていた占いにも「あなたは60歳から活躍します」とか書いてありましたし、途中で気持ちが折れたりすることもなかったです。普段はそんなこともないのですが、絵本作家を目指すということに関しては、不思議とずっと強い気持ちでいることができましたね。

40代でデビューしたいなという目標もありましたが、肝心なときにのんびりしてしまう性格もてつだって、今になってしまったのかなと思う節もあります。

第1回目の今回は、絵本作家を目指そうと思い立ってから、ついにデビューが決まるまでについてお話ししたいと思います。少し長くなりますがお付き合いください。

絵を描くことが好きな子どもでした。将来は画家になりたいと思っていましたが、両親からは絵で食べていくことは大変なことだよと諭され、画家になる夢はいったんおいておくことにしました。高校では美術部に入り油絵などを描いていました。その後、絵を描く仕事ではなく、縁あってベビー子ども服の店をはじめ、今にいたっています。

20歳になってからは絵画教室に通ったこともありました。デッサンしたり野外スケッチに出かけたり、教室が終わってからの飲み会も楽しみのひとつでした。

そして29歳の冬。スキー場にむかう車の助手席で、窓の外からみえる夜の雪景色を見ながら、ふと頭にお話が浮かんできました。この話に絵をつければ、絵本になるかも。これが、絵本作家をめざすことになった僕の出発点です。

ちなみに当時好きだった絵本はレイモンド・ブリックズの『さむがりやのサンタ』と『スノーマン』、国松エリカさんの『ラージャのカレー』、太田大八さんの『だいちゃんとうみ』です。

双子の子育てや消防団で忙しすぎた30代

33歳のとき、赤ちゃんが生まれます。しかも双子で男の子と女の子、映画「スターウォーズ」のファンのぼくはルークとレイアが家にやってきたと喜んでいました。さしずめぼくはアナキン・スカイウォーカー、後のダースベイダーといったところでしょうか。

双子の赤ちゃんの育児はたいへんで、ミルクを飲ませたり、おむつを替えたり、お風呂にいれたりで毎日大忙しです。

子どもが2歳になると寝かしつけるのに絵本の読み聞かせをするようになりました。

うちの子はアーノルド・ローベルの『どろんここぶた』が大好きで、毎日リクエストされ「今日もこれ読むのか」という感じで100日連続で『どろんここぶた』を読みました。

読み聞かせのおかげで絵本に接する機会が増え、36歳のころ、絵本のテキストを書き始めました。

子育てと併行して、消防団にも入団しました。消防団は20年やっていましたから、住宅火災や山火事、行方不明者の捜索まで経験しました。

そういったことでバタバタとしており、そこまで絵本作りに時間をさけないまま30代はすぎていきました。

本格的に絵本を作り始めた40代

40歳になったころ、妻のすすめで福音館書店の月刊誌『母の友』の「一日一話」に応募し、それが掲載されることになりました。作品に対して、松居直さんから「不思議なオリジナリティーを感じる」と一言も添えていただき、とても嬉しく、創作に弾みがつきました。

ダミー本を作って絵本コンテストに応募し始めたのはそのころからです。

しかし、出せども出せども、「またの応募をお待ちしています」の返事が来るばかり。どうしたものかと思っていたところ、通信教育で絵本の勉強ができる「講談社フェーマススクールズ」(当時)に入ります。ここでは絵本作りの基礎と絵を描く根気が養われたように感じます。

ある日、ぼくのお店(子ども服のお店です)に飾ってあった絵をご覧になったお客様に、「この絵、誰が描いたの?」と聞かれ、「ぼくが描きました。お店するかたわら絵本も描いてます」とお話しすると「神戸に絵本作家を目指している人が集まって勉強しているところがあるよ」と教えていただき、神戸のギャラリーヴィー絵話塾を知り、通うことになりました。絵話塾にはオーラ出まくりの先生方、個性豊かな受講生のみなさんがいて、そこに身をおくだけでも良い刺激をいただきました。

授業ではレコードを聴きながら、レコードジャケットの絵を描いたり、隣の人の描いた場面の次の展開を考えて描いたり、とても楽しく面白かったです。

また、それぞれダミー絵本を発表し、全員から感想を聞かせてもらうのも良い経験でした。通っていた1年間で、15見開きのダミー絵本とじゃばら絵本、8見開きのしりとり絵本2冊、テキスト3話、版画1枚、立体作品2点、イラスト3枚描きました。

卒業展では、1年間学んでできた作品を展示してお披露目をします。来場者から作品への感想もいただき、それは今もたいせつにとっています。自分を信じる力が弱くなったときは、その感想を読みかえしては充電しています。神戸まで片道3時間かけて電車で通っていましたが、毎回受講が楽しみで苦に思ったことはありません。
これまでに描いてきた作品の中から。これは『のぼりりゅう』という作品です。辰年生まれなのでのぼり龍のごとくありたいのです。
写真提供/みやもとかずあき
作品名は『アンリとリダ』。男の子がアンリで女の子がリダです。有田に住んでいますので、名前はそこからきています。
写真提供/みやもとかずあき

絵本のコンテストへの応募のこと

絵話塾に通いはじめて1年たったころから、ようやくコンテストで入賞するようになってきました。

講談社絵本新人賞を受賞するまで、コンテストは落選したものも入れると12回は応募しています。落選が続いていたときは、いろいろ盛り込みすぎて、話がごちゃごちゃしていて、暑苦しい絵本になっていたと思います。

話の軸がぼけないように、盛り込む内容も吟味して、面白くなるように心がけるようになってから、入賞するようになりました。

それでもコンテストは大賞が取れない結果がつづきます。もちろん残念な気持ちもありますが、入賞した喜びのほうが大きく、夢に近づいていると信じていました。大賞をとった人をうらやましいと思ったときは、「お先にどうぞ、ぼくも必ずそこにいきますから」と心の中でつぶやいていました。

講談社絵本新人賞は2020年に応募しようと準備はしていましたが、その年はコロナのため賞自体がお休みになり、応募する機会をうしなってしまいました。

3年後、もう一度描きなおして第44回に応募しました。

講談社絵本新人賞はいろんなコンペの中でも最も難しいコンテストだとぼくは思っていましたから、入賞することなどまずないだろうと高をくくっていました。ウェブで選考経過が掲載されていることもまったく知らず、速達が来て最終選考に残っていることをはじめて知ったぐらいでした。

そして運命の日が訪れます。講談社から電話があり新人賞受賞の連絡!

言葉にならないほど嬉しかったのは昨日のことのように思います。その夜はビールを浴びるほど飲みました。

絵本作家になろうと思ってから30年、59歳になっていました。

ここに至るまでに、同級生や絵本作りをしていることを知ってくださっている方々が励ましの言葉をかけてくださったこと、またずっと背中を押し続けてくれた妻にも感謝しています。

応募作品『福の神』が誕生する前に『あな』という未発表の作品をつくっていました。

そこに登場する青鬼が気に入って、障子と障子の間に立つ青鬼を描いてかざっていました。その絵を眺めていたときにすうっと降りてきたのが『福の神』の話です。

この続きはまた次回。
ふくのかみとおにの乗り物は竜だったのですね。

講談社絵本新人賞 受賞作既刊

19 件

みやもと かずあき

Kazuaki Miyamoto
絵本作家

和歌山県生まれ。第44回講談社絵本新人賞受賞。絵本作家を目指して30年、60歳にして、ついに本作で念願のデビューを果たす。 男の子と女の子の双子育児の傍ら、「講談社フェーマススクールズ」「神戸ギャラリーヴィー絵話塾」で絵本制作を学んだ。受賞歴として第38回日産童話と絵本のグランプリ絵本の部優秀賞、第3回安城市新美南吉絵本大賞入賞など。 現在は、地元でベビー子ども服店を営みながら、みかんや野菜を少々作っている。

和歌山県生まれ。第44回講談社絵本新人賞受賞。絵本作家を目指して30年、60歳にして、ついに本作で念願のデビューを果たす。 男の子と女の子の双子育児の傍ら、「講談社フェーマススクールズ」「神戸ギャラリーヴィー絵話塾」で絵本制作を学んだ。受賞歴として第38回日産童話と絵本のグランプリ絵本の部優秀賞、第3回安城市新美南吉絵本大賞入賞など。 現在は、地元でベビー子ども服店を営みながら、みかんや野菜を少々作っている。