父が6歳の息子に贈ったのは「愛と祈り」だった〔1万人ものユダヤ人の子どもを救った「いのちの列車」の実話にもとづく物語〕

幼い一人息子に送ったポストカードに込められた思い

ライター:中村 真人

第二次世界大戦直前、ドイツでのユダヤ人への迫害が過激化し、状況が緊迫するなか、多くのユダヤ人が子どもだけでも国外へ脱出させたいと願いました。多くの国が門戸を閉ざすなか、イギリスが子どもに限り入国を許可したことで「いのちの列車」が実現し、その後1万人ものユダヤ人の子どもを救いました。

戦後80年となった2025年、この「いのちの列車」によってホロコーストを生き延びたヘンリーとその父・マックスの実話に基づいた物語『おとうさんのポストカード』が刊行されました。迫害から逃れるため、「いのちの列車」に乗り一人イギリスへ渡ったヘンリー。幼い彼の心の支えになったのは、お父さんからのポストカードでした。

今回本書の監修者である中村真人さんに、実際のポストカードとともに当時の時代背景やヘンリーやお父さんが置かれた状況について寄稿いただきました。

1回目/全2回
2回目はこちらから
※公開日まで無効リンク(10月初旬に公開予定)

『おとうさんのポストカード』を早速見る

1万人の子どもの命が救われた「いのちの列車」

人は列車に一度乗ったら、自分で行き先を変えることはできない。

それが自分の意思であるにせよそうでないにせよ、乗客はかなりの程度運命に身を委ねることになる。今から86年前、ナチス・ドイツの支配下で行き場を失ったユダヤ人の子どもたちを乗せた「キンダートランスポート」という救出プログラムが実施された。ドイツ語で「子どもの輸送」を意味するこの出来事は、「いのちの列車」とも呼ばれる。

1938年11月9日、ドイツ全土でユダヤ人の商店やシナゴーグが破壊、放火されたいわゆる「水晶の夜」事件が起きた後、多くのユダヤ人は国外に脱出しようとした。多くの国が門戸を閉ざした中、イギリス議会が大きな決断を下した。ドイツ、オーストリア、チェコスロヴァキア、さらにポーランドの一部の都市に住むユダヤ人の子どもに限定して入国を許可したのである。

同年11月末、約200人の子どもたちを乗せた最初の列車がベルリン・フリードリヒ通り駅を発車して以降、第二次世界大戦が勃発するまでの9ヵ月間に、ミュンヘン、ライプツィヒ、ハンブルク、ウィーン、プラハなど各都市から子どもたちが家族を離れて旅立った。

組織面で支援したのは、主にユダヤ人コミュニティとクエーカー教徒のグループ。比較的小さい規模の支援者グループにより、約1万人のいのちが救われたのは、特筆すべき出来事といえるだろう。この「いのちの列車」は、その数年後から、アウシュヴィッツを始めとする強制収容所へとユダヤ人を運ぶことになる「死の列車」と対比して、人間性と希望の象徴にもなった。

一人息子を救う父の決断

「いのちの列車」によってホロコーストを生き延びた一人 ヘンリー・フォーナーさん

イスラエルのエルサレムに住むヘンリー・フォーナーさんは、キンダートランスポートによってホロコーストを生き延びた一人だ。

ヘンリーさんは、1932年6月12日、ハインツ・リヒトヴィッツの名前でベルリンに生まれた。翌年ヒットラー率いるナチスが政権を取ってからは、ユダヤ人への差別と迫害が激化してゆく。1936年のベルリン・オリンピックの翌年、母のイルゼは行き場のない状況に絶望して自殺してしまう。「水晶の夜」以降の緊迫する状況の中で、父のマックスは一人息子のハインツを「いのちの列車」でイギリスに送る決断をしたのだった。

1939年2月頭、ハインツ少年はイギリスへと旅立ち、里親となるフォーナー夫妻のもとで育てられることになる。キンダートランスポートの対象となったのは、17歳までの子どもだった。ヘンリーさんは当時6歳。かわいさ盛りのただ一人の息子を異国の地に送ろうとしたマックスのつらい心情はどれほどのものだったのだろうか。

離れて暮らす幼い息子に父が贈ったのは、ポストカード

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