「母だから・女だから」と言われて…坂東眞理子さんが「後輩ママ」に伝える「ジェンダーバイアス」との60年

「女の子にはもったいない」から始まった違和感

「私が生まれたとき、母は“また女の子か”と周囲から同情されたそうです。でも、『ありがとうございます』と、母は淡々と受け止め、まったく偏見なしに私を育ててくれました」

「『女の子らしくしなさい』などと言われたこともありません。今にして思うと、男兄弟がいなかったことも、理由かもしれませんね」

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四姉妹の末っ子として富山で誕生した坂東眞理子さん。少女時代は活発で、かけっこも得意。「男の子なら良かったのに」「女の子にはもったいない」──。周囲には、そんな言葉が飛び交っていたといいます。

「でも、“私は女の子だもん”って思っていましたし、“男の子には負けないよ”とも思っていました」

なぜ男の子だったら褒められて、女の子だと惜しまれるのだろう……。幼い坂東さんは、はっきり言語化できないまま、問い続けていたのかもしれません。

「物心がついてくるに従って、“女の子に期待されている役割は小さくて、男の子ならいろいろな可能性がある”という現実に、フラストレーションを感じるようになったんです」

そんな思いを抱えたまま、坂東さんは東京大学に進学します。当時、女子が四年制大学、しかも東大に進むことはまだ珍しく、家族の間でも驚きや戸惑いがあったとか。

「両親は『女の子がそこまでしなくても……。大丈夫なの!?』という反応。でも、反対されることもなく、最終的には『本人が望むなら』と背中を押してくれました」

「珍獣パンダ」として、男社会を生き抜く

当時は、女子学生が極端に少なかった東大はもちろんのこと、「女子大学生」というだけで珍しがられる時代。民間企業からは「高卒・短大卒のほうが扱いやすい」と敬遠され、「四大女子は就職に不利」とも言われていました。

「短大のほうが就職も楽だし、結婚するにも有利──。親だけでなく、周囲からも、そんなことを言われて、短大を選んだ人がとても多かったんです」

そんな時代に四大、しかも、当時は女子学生が極めて少数だった東大へ進んだ坂東さんが、大学卒業後に選んだのは、官僚という道。

▲坂東さんが大学を卒業したのは1960年代後半。女性の就職率は上がってきていたものの、依然として男性との格差が存在していた。(写真:アフロ)

「当時、四大を出た女子の選択肢は、教師になるか、大学に残って研究者になるか、あるいは、公務員になるか、ぐらいしかなかったんですね。それで私は、国家公務員試験に挑んで官僚の道を選びました。自分に教師や研究者が向いていないと思いましたし、官僚になったほうが、幅広い仕事ができそうだと感じたからです」

こうして坂東さんは総理府(現内閣府)に入省。婦人問題担当、青少年対策、広報などに従事することに。

「入ってみたら、本当に男社会でした……。私はよく、自分のことを“珍獣パンダ”と呼んでいました。『パンダほどかわいくない』と言われましたけど(笑)。とにかく、それくらい女性は珍しい時代だったんですね」

当時、職場での坂東さんは、まったく孤立した存在。誰一人味方はおらず、自分の意見を主張することなく、ひたすら周囲に合わせていたそう。

「主張すれば浮きますし、黙っていても目立ちました。当時、労働基準法によって女性の深夜作業が禁止されていましたから、私は男性のように徹夜もできず、夜の10時になると、『すみません。帰らせていただきます』と言わなければなりませんでした」

▲当時の労働基準法により、女性の時間外労働は1日2時間、1週6時間、1年150時間と制限されており、深夜業も原則禁止とされていた。1985年になって、勤労婦人福祉法の一部改正、および、男女雇用機会均等法が成立し、この制限が撤廃された。(写真:アフロ)
▲当時の労働基準法により、女性の時間外労働は1日2時間、1週6時間、1年150時間と制限されており、深夜業も原則禁止とされていた。1985年になって、勤労婦人福祉法の一部改正、および、男女雇用機会均等法が成立し、この制限が撤廃された。(写真:アフロ)

さらに、結婚・出産を迎えた際には「産休を取らせてください」と言うだけで、職場で肩身が狭い思いをしたそう。「当時は、今のような整備された育休制度はなく、産前産後6週間の産休だけでした」と坂東さんは振り返ります。

そんな中でも、着実に実績を積み重ねた坂東さんにとって、見える景色が変わってきたのは、40代で管理職になったことがきっかけでした。

希少価値が武器に…坂東さんの転機とは?
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