芸能界で告発続く中「いじめから目をそらすな!」と児童書が訴える

ジャンポケ、しょこたんの言う”なかったことにはできない”が伝わる一冊

大人が過去に犯したいじめも描いた児童文学

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写真 アフロ

「小学校3年生から中学まで、ひどいいじめを受けていました」

「もし、人を傷つけている人がいるなら絶対にやめてほしい。その人は一瞬で忘れるかもしれないけど、いじめられている側は一生忘れない。僕は一生恨んでいます」

お笑いトリオ「ジャングルポケット」のメンバー、斉藤慎二さんが、中学校で行われた講演で、こう語った。

タレントの中川翔子さんも、中学生のころにいじめが原因で不登校になり、「死にたい」とさえ思っていたと告白しているし、一昨年の東京オリンピック・パラリンピックでは、開会式の楽曲を提供するはずだった小山田圭吾さんが、中学時代に障がいのある友人を陰惨な手口でいじめていたという過去のインタビュー記事が話題になり、楽曲担当を辞任するに至った(辞任してしばらくの後、小山田さんはメディアで、記事に書かれたことのうち、自身が行った行為と、そうでない行為について説明をしている)。

いじめの加害者が大人になってしまえば、「そんなの子どものころの話でしょ」とばかり、のうのうと平穏な暮らしを送れる時代は終わった。

あらためて言えば、いじめの事実が消えることは、けっしてないのだ。

児童書の世界でも、これまで「いじめ」は多く取り扱われてきたテーマだが、『だれもみえない教室で』(2023年1月26日刊行)は、いじめとの向き合い方を考えるうえで、新たな視点を提示した一冊と言える。

著者は、これまでも小学生の生きづらさに寄り添った小説を発表してきた児童文学作家の工藤純子氏で、小学6年生の教室で起きたいじめをテーマに、被害者、加害者、傍観者と視点を切り替えて、それぞれがいじめとどう向き合うのかを描いている。

物語に登場する担任教師も、小学生だったころに、自らがいじめに加担しており、その過去にさいなまれる。いじめの事実が消えることはないということを伝えている点でもタイムリーな一作と言える。

小学校を舞台に、いじめが、けっして「過去のもの」とはならないことを描いた一冊を、どう読めばいいのか。児童文学の評論を多く手がけている土山優氏が解説した。

【土山優(つちやま・ゆう) 児童文学の評論や書評を、『季節風』『児童文芸』『小学図書館ニュース』などの諸誌に執筆。かつて絵本テキストを執筆したことがある。『海のむこう』(小泉るみ子・絵 新日本出版社)。全国児童文学同人誌連絡会『季節風』同人】

閉ざされた教室に少しずつ光をあてていく

タイトルがすでに、物語の核心を示唆している、と思った。

「教室」という場所は、実は閉ざされた世界だ。それは、児童にとっては、空間以上に心理的に、教師にとってはまさに空間的に、さらに保護者にとってはその両面において閉ざされている。

その閉ざされた世界の可視化に挑んだ作品が、工藤純子が執筆した、この物語である。

いじめの標的にされる三橋清也、いじめを止められず加担してしまう久保塚連、いじめを主導する関颯人。6年生になって、仲の良かった少年たちの関係が、颯人の行動によって徐々に崩れて行く。ついこの間までは和気藹々と遊んでいた少年たち、その少年たちに何が起きたのだろうか。

写真 アフロ

ある雨の降る日の放課後の教室、清也がトイレへ行っている間に、颯人が言いだして、清也のランドセルの中に金魚の餌が投じられる。その現場には清也の親友、連もいたが、颯人の行為を止められなかった――。

物語はこうして始まる。

閉ざされて、だれも見えない世界を、工藤純子は、少しずつ少しずつ、光をあてるがごとく、少年たちそれぞれが自ら心の裡と対峙し葛藤する姿を、丁寧に且つ繊細に描く。

いじめは、なぜ起きるのだろう。

まるでメビウスの輪のようだ。

大人はバカか? 子どもをなめているのか?

私の目は読んでいるページから離れて、ベランダのガラス戸越しに見える、公園で遊ぶ子どもたちに移る。

現実に起きたいじめ事件が私の記憶に甦る。

滋賀県大津市で起きた中学2年生男子の自殺。そして北海道旭川市で凍死した女子中学生。いずれも学校サイドは当初、いじめはなかったとの見解を発表している。

教育現場のすべてが持っているわけではないにしろ、この「あったこと」を、「なかったこと」にする体質については、憤りを覚える。この大津市での少年の自殺が契機となり、「いじめ防止対策推進法」が成立し公布された。ここには、下記のとおりいじめの定義が明確に記されている。

〈児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。〉

つまり、一定の人間関係の中で行われた行為が、人の体や心を傷つけ、その子が苦しんでいれば、それはもういじめなのだと、法にハッキリと書かれているのだ。

当作品でも、担任教師の原島夏帆は、いじめに遭っている三橋清也の母からの電話に、モンスターペアレンツという言葉を思い浮かべ、いじめについて、ある意味、無頓着ともいえる態度でやり過ごそうとする。

いじめられている子ども、いじめている子ども、加担した子どもたちを集めて、謝らせて、はい、これで解決しましたねという認識なのである。

大人はバカか? 子どもをなめているのか?
あやまれば、すべて元通りになると本気で思っているのだとしたら……。
(本書からの引用)

私も、この教師、バカか? と思った。

ほんとうに、子どもをなめちゃいけない。大人の無神経さが、心に刺さる。工藤は、言葉の脆弱さも、言葉の重さも承知で、まさにそれを見据えて、書き綴り描写する。

担任教師が心に秘めていた過去

原島夏帆は、この一件を学年主任にも校長にも報告をしない。

彼女は、“教師は忙しすぎる”ということを、つねに自分への言い訳にするが、じつは、原島自身が6年生のときにいじめに加担した事実を、記憶の奥に封じ込めていたのだった。工藤は原島夏帆の閉ざされた世界にも光をあてる。

まさにいじめの対応に追われているなか、原島は、小学生時代の同級生で、やはり教師をしている有希子ちゃんと出会うことになる。

彼女は原島に、「教師の仕事は、勉強を教えることじゃない。子どもと向き合うことだよ。一人一人を、しっかりみてあげなきゃ」と話し、続けて「教師が大変なのは、大人の問題。子どもには関係ないでしょう? そのことに気づいて戦っている教師はたくさんいるよ」と言う。

有希子ちゃんとの再会から、原島は、いじめる側の一人だった過去から逃げないことを決意する。彼女の子どもへの向き合い方や、清也へのいじめの問題に対しても、変化が表れ始める。

ミニチュア写真 田中達也(MINIATURE LIFE)(『だれもみえない教室で』より)

いじめが起きたときに、なにかの助けになる作品

いじめが起きる原因は一様ではなく、しかもそれが長い期間に及ぶと、それに比例するように残酷さも増していく。

子どもには、子どもの世界があるし、子どものプライドもある。しかしそれは分厚い壁に阻まれているわけではない。

見えない世界ではない。

教師や親、大人たちが、しっかり見ていれば、なにが起きているか、気づく。気づけば思いやることができる。

見える、ということは、気づく、ということだ。

そして、『だれもみえない教室で』を読み終えて、なにより心打たれたのは、子どもたち、清也、連、颯人が、そして放課後のあのとき教室にいて、なにか起きていると気づいた佐伯乃亜が、自分がとった行動や、自身の心の裡から目をそらさず、対峙し、乗り越えていく姿である。

彼らの、なんと清々しく眩しいことか。

いじめは、なぜ起きるのかと考えても、考えても、その答えを出すのは難しい。

でも微かな気配や兆候は見過ごしてはいけない。見ないふりをしてはいけない。

いじめは、被害者の子どもは勿論、教師や親にとって、そして加害者の子どもにとっても、その他の同級生や友人たちにとっても、長く続く辛く苦しい状況をもたらすものだと思う。この一冊の本『だれもみえない教室で』が、なにかきっと助けになる作品であることを私は信じたい。

(土山優氏の原稿はここまで)

ネットギャリーに寄せられたレビューを紹介

『だれもみえない教室で』は、書籍の刊行前に会員からのレビューをもらうNetgalley(ネットギャリー)というサービスを通じて、小説の内容を読んでもらっていた(2022年12月の1ヵ月間公開。現在は公開しておりません)。

ネットギャリーの会員の多くは書店、図書館、学校の関係者や文筆業など、読書の経験値が高い層で構成されている。

この作品をより立体的に伝えたいと思い、土山氏の評論に加えて、以下、そこに寄せられた感想の一部を紹介し、記事の結びとしたい。

「この教室に私がいました。私は巻き込まれたくなくて見て見ぬふりをした一人。あなたもこの教室のどこかにいるのではないでしょうか。」(レビュアー)

「子どもだけでなく、大人も含めて主人公を切り替え、様々な角度から描かれることで、物語の全体像がよりクリアになるだけでなく、大人も感情移入しやすくなっています。子どもの成長を描く児童書はよくありますが、この作品では大人も成長します。誰にでも気づきがあると思いますので、幅広い層に読まれて欲しいですね。」(レビュアー)

「作中の様々な立場の人たちの言葉がぐさぐさ刺さってくる。何故いじめがなくならないのか、私たちの本気が試されているような作品でした。」(書店関係者)

「ここに登場する子どもたちは、特別な才能や不幸を背負わされた子どもではない。読者の子どもたちに共感できる、一人一人違った、普通の子どもたちだ。だからこそ、物語は複雑で、見えにくい生きにくさを抱えた現在の子どもたちに近く、寄り添って響く。」(メディア/ジャーナリスト)

「教員が抱える数々の問題点も丁寧に描かれているので、学校に勤務する一人として考えさせられる部分が多かったです。単にいじめは悪いことだというだけのお話ではなく、いじめてしまう子が自分を取り戻すために一度家から離れる展開になっているところに希望が持てました。」(図書館関係者)

だれもみえない教室で(工藤純子・著)

人の心の中は見えないもの、
そして伝わらないもの
しっかりと伝えるためには
「言葉」にすることが大切!
「心」よりも「行動」が大切!
(元・麴町中学校校長、現・横浜創英中学・高等学校校長 工藤 勇一氏)

『となりの火星人』『あした、また学校で』『サイコーの通知表』と、小学生の生きづらい現実に寄り添った話題作を放った工藤純子氏の書きおろし最新作。

「よくあるよね。大人に無理やりあやまらされたり、握手させられたり。本人同士は納得していないのに」
「なんで、そんなことになるんだろう」
「まあ、問題を大きくしたくないとか、さっさと終わらせたいとか……大人の都合もあるよね」
オレたちの気持ちは、いつもどこかに置き去りにされたままだ。(本文より)

小6のクラスで起きた、ランドセルに金魚のエサが入れられるという事件。被害を受けた子も、エサを入れた子たちも、いじめが起きている空気を感じつつ声をあげられなかったクラスメートも、そして、加害者としていじめに加担した過去を持つ担任の教師だって、いじめという「現実」からはけっして逃れられない──。痛烈なメッセージが込められた一冊です。

カバー装画は、ミニチュア写真家・見立て作家としてNHK連続テレビ小説『ひよっこ』のタイトルバックや、一般文芸作品の装画で活躍中の田中達也氏が担当しました。

『だれもみえない教室で』著者
工藤 純子(くどう・じゅんこ) 東京都生まれ。2017年、『セカイの空がみえるまち』(講談社)で第3回児童ペン賞少年小説賞を受賞。おもな作品に、『となりの火星人』『あした、また学校で』『サイコーの通知表』(以上、講談社)、『てのひらに未来』『はじめましてのダンネバード』(ともに、くもん出版)、「恋する和パティシエール」「プティ・パティシエール」シリーズ(ともにポプラ社)、「リトル☆バレリーナ」シリーズ(Gakken)、「ミラクル☆キッチン」シリーズ(そうえん社)などがある。日本児童文学者協会会員。全国児童文学同人誌連絡会「季節風」同人。

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くどう じゅんこ

工藤 純子

Junko kudo
児童文学作家

東京都生まれ。2017年、『セカイの空がみえるまち』(講談社)で第3回児童ペン賞少年小説賞を受賞。おもな作品に、『となりの火星人』『あした、また学校で』『サイコーの通知表』(以上、講談社)、『てのひらに未来』『はじめましてのダンネバード』(ともに、くもん出版)、「恋する和パティシエール」「プティ・パティシエール」シリーズ(ともにポプラ社)、「リトル☆バレリーナ」シリーズ(Gakken)、「ミラクル☆キッチン」シリーズ(そうえん社)などがある。日本児童文学者協会会員。全国児童文学同人誌連絡会「季節風」同人。

東京都生まれ。2017年、『セカイの空がみえるまち』(講談社)で第3回児童ペン賞少年小説賞を受賞。おもな作品に、『となりの火星人』『あした、また学校で』『サイコーの通知表』(以上、講談社)、『てのひらに未来』『はじめましてのダンネバード』(ともに、くもん出版)、「恋する和パティシエール」「プティ・パティシエール」シリーズ(ともにポプラ社)、「リトル☆バレリーナ」シリーズ(Gakken)、「ミラクル☆キッチン」シリーズ(そうえん社)などがある。日本児童文学者協会会員。全国児童文学同人誌連絡会「季節風」同人。