
【不登校】なぜ学校に行けないのか? 「子どもたちの真実」を専門家3人が明かした!
おおたとしまさ×井本陽久×相澤樹3者対談1/3「学校に行っていない子どもたちの今」 (2/3) 1ページ目に戻る
2026.09.21
学校に行けるかどうかは「適応」
司会:「学校に行けない」と「学校という環境が合わない」の違いについて教えていただけますか。
井本:学校の環境が合う・合わないでいえば、合わない子なんかいくらでもいるんです。
僕自身は小さいころから学校が合っていなかったけど、めちゃめちゃ楽しく通ってた。ちょっとはみ出してふざけたりして、周りが喜ぶのを楽しむことができたんです。けどそれができない子もいるわけじゃないですか。
だから学校へ行ける・行けないは、学校に適応できるかどうかが関わっていると思います。じゃあ適応できない子がよくないのかっていうと、決してそんなことはない。学校に行かないことが、自分を守る選択になっていることもあると思うんです。
逆に今、学校へ行けていてちゃんと評価され、上手に適応しているように見える子の中には、実はそこを手放すのが怖くて学校に行かない選択ができないだけで、本当は苦しい。でもそれすら気づかなくなっている子だって大量にいると思うんですよね。そんな自分を守る選択ができない子の傷がどんどん深くなっていくことのほうが僕はむしろ気になる。
だから、学校へ行っていればいいとか、行かないほうがいいとか、あるいは適応する・しないのどっちがいいとか、そういう問題じゃない。もっと深い問題ですよね。
相澤:私のフリースクールにも、本当にいろんなタイプのお子さんが来ます。学校に適応できない、合わない子の中には、すごくセンシティブにいろんな物事を受け止めてしまう子もいれば、逆にやんちゃすぎて学校側から「ちょっとこの子は……」と言われた子もいます。
原因は本当に子どもそれぞれであって、一般的に「こうだ」って言うことはできない。両端にいる子がいっぱいうちのスクール(花まるAIS)に来るなとも感じています。
おおた:学校のストライクゾーンみたいなものがあって、そこから外れちゃった両端の子どもがいっぱい来ているんですよね。
ストライクゾーンに収まっているように見える子でも、実はものすごく無理していて、本人もそれに気づかず、どんどん学校の制度や価値観みたいなものに自分を削られてしまう。無自覚の苦しさみたいなものを抱えている子もたくさんいるんじゃないかということですよね。
現代の子どもたちから奪われた「余白」の時間
相澤:なぜ学校へ行けないか、子ども自身でも理解できない子がすごく多いです。
おおた:そう、不登校の原因は何なのかって、たくさんあってわからないんですよね。本人だってわかっていない。
ただ、「学校の環境が合わない」という意見があると、「じゃあ学校の環境を変えましょう」とすぐになりがちじゃないですか。でもそれもちょっと危険だな、すごく考えが狭いなって。
だって学校は昔のほうがずっと非人道的でめちゃめちゃ人権を無視していたでしょう。なのに今のほうが不登校は増えているわけですよね。
だからこれは学校だけの問題じゃなくって、学校以外の時間・空間のような「余白」がなくなったことが大きいんじゃないかと思うんです。
昔は学校が少々、居心地の悪いところだったとしても、終業の「帰りの会」が終わったら子どもたちは「やったー!」って外に飛び出して、裏山や秘密基地へ行ったりして遊んでましたよね。その余白の中には、気づかないうちに心の傷を修復する時間があったと思うんですよ。
そうした余白が今は世の中から消えてしまった。放課後に習い事とかいろんなものを詰め込むから、休む暇がなく、修復できなくなってしまっている。
昔は「明日学校行くのめんどくせえけど、ま、6時間付き合ってやるか」って気持ちになれていたものが、今その余裕がなくなったことも背景にあるんじゃないかって。
井本:学校の構造は基本的には子どもによかれと思う方向に大人が誘導していく。それが今、家庭でも行われていますよね。
インターネットなどでたくさんの情報が親にインプットされるから、この子がちゃんと自主的に勉強するにはどうしたらいいのか、この子がやり抜く力を持つにはどうしたらいいんだって考えてしまい、親が家庭でも常にそういう目で子どもを見るようになる。
その結果、子どもが自由に世界に手を伸ばすような余白が本当になくなっちゃったんですよ。
相澤:私もフリースクールのアイス(花まるAIS)を立ち上げたときに、これやりたい、あれもやりたいって、まさに大人側の「こんなフリースクール作りたい」という視点でスタートしたんです。ですが、結局、教えられたのは、子どもたちは全くそれらを要求してなかったということでした。
そして行き着いた先は、やっぱり放課後だったんですよ。放課後の余白のなさが、子どもたちの辛さにとてもつながっていると感じたんです。
私たちが子どものころって、放課後に「集まろう」「遊ぼう」があって、たまに先生たちも来てくれて大縄跳びを回してくれたり、思い出は放課後にいっぱいあった。
余白がないと余韻って生まれないですよね。余韻が生まれると、子ども同士が放課後のちょっとしたつながりの中で「また明日ね」と約束を交わす。その約束があるだけで翌日、学校へ行く理由になったんですよね。
おおた:休み時間のために学校へ行ってましたよね。
井本:そうそう、給食とかね。揚げパン1個でも食べたいとかね。
おおた:自分たちが子どものころ、なぜ学校へ行けていたかを思い出してみれば、学校の中にも余白があって、授業以外の時間の中で楽しさがあったから。子どもたちが学校に求めているのはそこなんだから、「授業をもっとよくしよう」とかは次のことですよね。
今は学校の余白もないし、学校が終わってからの余白もなくなってしまった。それだと子どもは深く息をするタイミングがない。だから学校やっていても「もう無理だから、ちょっと今、休ませて」となっちゃったんじゃないかな。






























