木南清香「ミュージカルへの夢を諦めなかった音楽漬けの学生時代」
ミュージカル俳優 木南清香さん「私の“音育”」#2~学生時代編~
2021.10.01
劇団四季出身で数々の人気ミュージカルに出演している木南さんは、幼い頃から歌や踊りが好きで、小学生のときにはすでにミュージカル俳優を志していたといいます。
「ミュージカルを仕事にする」と心に決めてから、どのような学生時代を過ごしたのでしょうか。
憧れの高校に合格するも同志はゼロ
小6でミュージカル「アニー」のオーディションを受け、ほかの参加者の圧倒的なレベルの高さにおどろいたという木南さん。
中学校へあがってからもピアノとミュージカル教室は継続して通っていたものの、歌は本格的な練習をしていなかったため、しっかりと学べる環境へと進路を決めたといいます。
「中3の11月頃に、声楽を学べる音楽科のある地元の公立高校への進学を希望しました。周りの同級生と比べたら、進路を決めるのがとても遅かったと思います。
音楽学校の受験には、ピアノの音を正確に聴き取る『聴音』や、その場で渡された楽譜を正しい音階で歌う『新曲視唱』が必須となります。しかし、私はその経験がなかったので、習っていたピアノの先生のもとで猛特訓していただきました。
試験日までは、歌のレッスンを週に1回、聴音を週に2回、新曲視唱を週に2回、ピアノを週に2回……という1週間のスケジュール。短期戦だったので、本当に大変な日々でしたね(笑)」
そんな苦労の末に合格を勝ち取った高校でしたが、いざ通い始めると、周りはクラシック志望の子ばかりだったと続けます。
「40人のクラスのうち、声楽専攻の子は8人でほかは楽器専攻。私は将来ミュージカルの舞台に立つために歌のスキルを磨きたくて、声楽専攻へ進学しましたが、私以外にはミュージカル志望の子が一人もいなかったんです」
同級生に同じ夢を持つ同志はおらず、また学校生活でミュージカルと直接触れる機会もほとんどありませんでした。そんな環境下では、多くの人があきらめるかもしれません。ところが木南さんは、クラシック志望や楽器専攻の生徒も巻き込んで、「みんなでミュージカルをやろう」と立ち上がったのです。
「文化祭の出し物として、私の発案でミュージカルを行ったんです。自分が演出を担当して、その場を仕切りながら出演もしました。とても好評で、自治体に招かれて外部公演も行ったんですよ!」
自分なりにミュージカルに取り組む機会をつくった一方で、クラシック志望の同級生に囲まれ、「ミュージカルの道へ進むには、このままクラシックを学ぶ大学へ入るのとは違うルートの方がいいのかもしれない……」と心配になり、進路についてはかなり悩んだといいます。
「私立の音楽大学って学費が安くはないので、将来、音楽やミュージカルを仕事にすることを考えたときに、『その仕事で学費をペイすることができるかな?』という不安がありました。なので、総合大学へ進学して、ミュージカルについては学校ではなく個人的にレッスンに通って学ぼうと思ったんです」
とはいえ木南さんの通う高校は音楽科。1週間の時間割の比重はほとんど音楽でした。
「高校3年生になる頃には、1限はフルートなど副科楽器、2限はピアノ、3限は重唱、4限は合唱、5限は個人の専攻の稽古、6限はソルフェージュ(楽譜の読み方など音楽の基礎教育)といった具合で、まる一日音楽に関する授業しかない曜日もありましたので、普通の高校と比べて圧倒的に一般科目を学ぶ時間が少なかったんです。総合大学へ進学するためには、浪人するしかない、そう感じていました」
浪人覚悟から現役合格に挑戦した母の一言とは
こうして、浪人覚悟で総合大学を受験すると決めた木南さん。しかし、母親からのある一言で、音楽を専門的に学べる公立大学の現役受験にチャレンジすることを決めます。
「あるとき、母と受験の話をしているなかで、音楽学部のある公立大学の話題が出たんです。京都市立芸術大学がそうなのですが、募集人数がとても少なく狭き門。私が受けられるレベルではない、という気持ちもあり、受験するつもりはなかったんです。
それに、『もう先生には現役受験はしないと伝えたし、今さら受験するなんて言えば怒られそう……』と消極的な思いもありました。すると母から、『先生は関係ないでしょ、あなたの人生なんだから!』と言われて、思い直しました」
母親の「あなたの人生なんだから!」という言葉が強く心に残り、現役受験へ挑戦することになった木南さん。準備期間が短かったものの、授業にマジメに取り組んでいたことが功を奏したといいます。
「受験を決めたのがギリギリだったこともあって、特別な準備はできなかったけど、とにかく課題曲の歌と、必須であるピアノを急ピッチで仕上げていきました。音楽史や音楽理論などの筆記試験は、日頃の授業で自然と知識が身についていたようです。自分がそのときに持っていたものをすべて出すことで、乗り切れました」