子どもが「勉強したくない!」と言い出した!「親が子どもにできること」は何? ベテラン教育者2人が伝授

国語教師・甲斐利恵子✕教育者・鳥羽和久対談#2「親の寄り添い方」

やりたいことを見つけるには「乗っかってみる力」

甲斐 子どもって「何のために勉強するの?」とよく聞いてきますよね。でも、これは問いじゃないよなぁって思うんです。子どもは勉強する意味を聞きたいんじゃない。「勉強、つまらないです」と言いたいだけなんです。

鳥羽 まさにそうだと思います。彼らがすでに勉強と出会い損なってしまっているからこそ発する言葉ですよね。だから、文字通り受け取って正直に答えたところで、子どもの心はますます離れていくでしょうね。

甲斐 そうなんです。これも沖縄の単元のときの話です。ある生徒が「短歌をつくるって意味がわかんない」と言い出しました。つまり「短歌はおもしろくない」と。

それで私は尋ねたんです。「『何のために短歌をつくるのか』という問いには、私もうまく答えられないな。あなたはどんな勉強の仕方だったら、沖縄を自分ごとにできそう?」と聞きました。

そうしたら「戦争を経験した人たちがどんな感情だったか、想像して短歌にするなんて、不遜(ふそん)な気がするんです」なんて言うの。「不遜」という言葉の使い方一つに私は感動しちゃうんですけど。

鳥羽 いやー、すごいことですよ。

甲斐 そのうえで彼は「その人たちの痛みを想像しただけで、自分ごとにしたと思うのはどうなんですか?」と言うんです。私としては「人間の想像力はすごいんだぞ!」と少し反論したいところなんだけれど、でも、その子が納得する方法で沖縄を自分ごとにしてほしい。

そこで「短歌では本気になれないならどうしようか?」と聞いたんです。すると「当時の新聞やメディアがどういう報道をしていたかを知りたい」と。

鳥羽 あぁ、おもしろいな。

甲斐 資料があったら本気でやれそうだと言うから、近所のコンビニで、当時の『沖縄タイムス』をプリントアウトしたり、図書館で沖縄の新聞をコピーしました。「これでどうかしら?」と次の授業で資料を渡したら、本当に嬉しそうだったんです。「ありがとう、りんちゃん(*)」って。

*甲斐さんのニックネーム。風越学園では子どもも大人も呼ばれたい名前で呼び合う。

鳥羽 彼は本物の探究者ですね。そして、甲斐さんがしっかり学びの環境をつくっているのが素晴らしい。

甲斐 いえ、でも、彼が「短歌は好きではない。おもしろくない。これではやりたくない」と表明したときに、伝えたいことはいっぱいあったのですが、言わずに「どうしたい?」と聞けたことはよかったかなと思います。

彼は、この学習全部をやりたくないと言っているのではなく、アプローチの仕方を変えれば自分はやれると言っているわけです。環境を整えてあげて、子ども自身がやりたいことに打ち込めるのが大事だと思えたのは、それまでの自分にはないことでした。これは単なる「好き・嫌い」のレベルの話ではないのだろうなと。

鳥羽 そうですね。「好き・嫌い」のレベルの話ではないということ、僕もそれは強調しておきたいです。

いまは、「うちの子には好きなことしかやらせません」という子どもに理解があるふうの親が増えています。でも、好き・嫌いレベルの解像度では、やりたいことなんてわからないに決まっています。大人だって自分が好きだと思ってることのなかには、嫌いなこと、めんどくさいことも混じっているはずなんですよ。

あらゆる行為には快と不快が混じっているという考え方が精神分析の基本的な知見です。親は、そのことを人生の実感として知っているはずなのに、子どものことになると「好きなことだけやらせる」と雑な話にしてしまう。

甲斐 大人は感覚的にわかっているからいいですけど、子どもはまだわからないですからね。幼いうちは言葉も溜まっていないので、「好きじゃないから、やりたくない!」と拒絶するのは普通です。

でも、抽象的な思考ができるようになり、ものごとに深く入り込むことができる中学生くらいの子は、きっと好き・嫌いだけで自分の行動を決めちゃいけないなと、わかっているのではないでしょうか。

では、やりたいことを見つけるにはどうすればいいか。それは、「乗っかってみる力」がすごく大事だと、私は思っています。自分がおもしろくなさそうだなと思うことでも、おもしろがってる人がいるということは、どこかに取っ掛かりがある。本気になって一緒にやってみて、おもしろがれたら、ラッキー。

「どうしてもおもしろがれない……」となっても、そのとき初めて「自分は他のことができます」「これだったらやってみたいです」という発見にもつながる。そうなったらもう全力で応援しますよ。

鳥羽 子どもが飛び込んでみることのできる環境は大事です。好きか嫌いかもわからないままに飛び込んでみる。最初は苦しくても、花火がパーンと打ち上がるように突然「好き!」がやってくることがある。でも、そういった苦しみのなかでしか味わえない、かけがえのない瞬間的な喜びを捨象して(捨て置いて)、大人は「好き・嫌い」だけの判断で子どもに伝えてしまうことがありますね。

甲斐 最近も、中2の男の子が「りんちゃん、俺ずっとラクなほうを選んできたんだよ。でもラクな毎日はつまらないと気づいた。きっと苦しいから、楽しいんだよね」なんて言ってきたんです。

鳥羽 すごいなぁ。本質に触れるチャンスが多いと、そういう言葉が自然に出てきてしまうんでしょうね。

「乗っかってみると、最初は苦しくても花火がパーンと打ち上がるように突然『好き!』がやってくることがある」という甲斐氏の言葉は子どもはもちろん、大人にも当てはまりそうです。  イメージ写真:アフロ
すべての画像を見る(全6枚)
未知の体験をして言葉にならず「わからない!」と悩み苦しむとき。それこそが学んでいる時間で、その後に生まれる言葉がすごいと甲斐氏は言います。 

親が子どもにできるたった一つのこと

鳥羽 僕も、不安になった親から「子どもを勉強モードにするにはどうしたらいいですか?」と聞かれることがあるんですが、やはり難しいですね。勉強に向かうスイッチを入れてあげられるのは、先生であり、教室なんです。残念ながら、多くの親はスイッチを押す才能に恵まれていない。

甲斐 確かに、親の一言で子どもが劇的に変わることは、あまりないように思います。その代わり、親にしかできない最も重要なことがあります。それは、そばにいてあげること。

鳥羽さんの本にもありましたが、「その子を変えよう」「能力を伸ばしてやろう」と思わずに、「あなたはあなたのままでいいんだよ」と言ってあげる。「がんばれ!」「集中して!」と、子どものやる気を管理するんじゃなくて、寄り添ってあげる。これは、ご家族にしかできないことです。

鳥羽 本当にそう思います。親がいちばん気をつけるべきなのは、子どもの管理者にならないことでしょう。親が管理者になってしまうことは、子どもが家庭という安心して休むことができる居場所を失うことを意味します。

そうすると、いつの間にか子どもは窒息しておかしくなってしまう。でも、「勉強しないと、ちょっと私のほうが心配になるんだけど」と、時に自身の感情をそのまま子どもに伝えるのは、決して悪いことではありません。

甲斐 「自分の心配」を「子どもが心配」に置き換えてしまうお母さんお父さんはいますね。それも、無意識のうちに。

鳥羽 そうそう。「このままではこの子が心配なんですよ」と言っても、その実、自分が心配しているだけ。親に必要なのは、自身の不安を、子どものせいにするのではなく、自身の問題として問い直してみることです。

「この子、家で全然勉強しないんです」という相談を受けることもあるんですが、それは家庭が機能している証拠だからあまり心配しなくていい。これは大村はま(*)も言っていますが、家庭は本来勉強するところじゃないんです。

*大村はま=甲斐利恵子氏が私淑する国語教師、国語教育研究家。1906年生まれ。1928年から国語科教師として働き、後に「単元学習」と呼ばれる指導法を自ら考案、実践した。主著に『教えるということ』『大村はま 国語教室』全15巻(筑摩書房)。2005年歿。

親と子どもが、一緒にご飯を食べて「おいしいね」と言い合える、家庭はそういう安心できる場所であればいいんです。

切羽詰まった受験生の親に、「私は、あの子のために何したらいいですか」と聞かれても、「一緒においしいご飯を食べたらいいんじゃないですか」としか言えないですよ。

僕は、塾で教えている人間だから葛藤しながらも宿題を出すけど、家で勉強するというのは家庭の役割と矛盾しているところがある。宿題を出す立場の人たちは、その矛盾に自覚的になる必要があります。

次のページへ 「将来の夢」なんてなくていい
20 件