世界的登山家・田部井淳子が息子に引き継いだ東北の高校生支援 大きな反抗期を経て 子育ても人生も「あきらめず一歩一歩」

世界的登山家・田部井淳子の子育て【3/3】~母子へ引き継がれた東北の高校生支援プロジェクト~

フリーライター:浜田 奈美

東北の若者の「心の復興」をめざした富士登山

2025年4月25日、福島県三春町(みはるまち)にオープンした複合スポーツ施設「アウトドアヴィレッジ三春」内ビジターセンター2階に、「田部井淳子記念館」が開設されました。1975年5月にエベレスト登頂を果たした際の登山ウエアや登山靴などが展示されています。

田部井さんは三春町で印刷工場を営む家の、7人きょうだいの末っ子でした。幼いころは体も弱くおとなしい子どもでしたが、小学4年生のとき、山歩きが趣味だった学校の先生の案内で栃木県の那須岳に登った経験が大きな刺激となり、山歩きに夢中な女性に成長したそうです。

そしてこのときに先生からかけてもらった「一歩一歩」という言葉を、田部井さんは終生、大切にしていました。

2011年3月の東日本大震災では、故郷である福島県が深刻な被害を受け、田部井さんも心を痛めていました。避難所に身を寄せる被災者たちをハイキングに招待するなど、田部井さんらしい方法で支援を続ける中で、田部井さんは復興を担う若者たちの「心の復興」に思いを巡らせました。

そして2012年、被災地の高校生を富士山登山にいざなう「東北の高校生の富士登山」プロジェクトをスタートさせたのです。

このプロジェクトは、「富士山に登ってみたい」と思う被災3県の高校生を、総隊長である田部井さんをはじめとする登山経験豊富な大人たちがサポートしながら、富士山頂を目指すというシンプルなものです。

生前、「人生と登山はとてもよく似ている」と話していた田部井さんは、登山中に自分や仲間を鼓舞するために「あきらめず、一歩一歩」という言葉を用いましたが、被災地の復興を担う世代にもこの言葉の意味を体感してほしいと考え、目指す場所を「富士山」にしたそうです。

余命がわかっても意欲的に活動

2012年7月、初めてとなる「東北の高校生の富士登山プロジェクト」を率いる田部井さんは「総隊長」の立場でしたが、この年の春、腹膜ガンであることが分かりました。そのため5合目で高校生たちを見送り、無事に登頂して下山したところを出迎えました。

高校生の中には田部井さんが「世界で初めてエベレストに登頂した女性」であることを知らず、「山登りが上手な元気なおばさん」と思っていた参加者もいたそうです。

このとき、医師には「余命」も告げられていました。2007年に早期の乳がんが見つかり、手術で取り除いていましたが、実質的な「再発」でした。

田部井さんは「病気にはなったけれど、『病人』にはならない」と公言し、病と共生しながらそれまでと同じように山に登り、講演会にも精力的に出向いていました。

2016年、下山した高校生を迎える田部井さん(写真左)。  ©一般社団法人田部井淳子基金
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母から託された言葉と手袋

田部井さんが最後にプロジェクトに参加したのは5回目となる2016年7月でした。

病を押しての参加でしたが、夫・政伸さんに支えられながらゆっくり夜通し歩き続け、7合目の山小屋まで登り、頂上を目指す高校生たちを見送りました。

霧雨が降りしきる悪天候の中、一歩一歩、頂上を目指して進む高校生たちの姿に安心した田部井さんは、「お母さんはここで引き返すから。進也君、高校生たちを頼むね」と長男・進也さんに告げました。

プロジェクト進行中のあわただしいやりとりでしたが、それでも田部井さんは進也さんの手に、登山の必需品である「手袋」がないことに気づき、進也さんから「高校生の一人に自分のを渡した」と聞くと、「これを使いなさい」と、自分の手袋を渡してくれました。

そして富士登山から3ヵ月後の10月20日、田部井さんはこの世を去りました。77歳でした。

母の最期に息子が伝えた言葉とは

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