ある日突然、ママが脳出血で倒れて長期入院することになった。育児・家事ともに完全にママまかせだった、フリーライターのパパ(46歳)は、いきなりワンオペ育児をしいられることに。それまで仕事しかしてこなかった“育児戦力外”のパパと、小6の娘、小3の息子、3人の新しい生活が始まります。
ママの入院をきっかけに、変わり始めたある家族の奮闘記。
第1回は「ママが倒れた日」編です。
「そのとき」までは完全に育児と家事にノータッチだった
戦力外通告を受けた。2010年のことだ。
といっても、僕は元プロスポーツ選手ではない。我が家の子育ての話だ。
2009年11月に、待望の長女が誕生。以来、大げさでも謙遜でもなく、子育ては妻がほぼ一人で担ってきた。
フリーライターとしての仕事が忙しいことを言い訳に、僕はまったくと言っていいほど育児・家事に参加していない。ちなみに妻も同じフリーライターで、どうやっているのかは謎だったが、仕事をしながら子育てと家事をワンオペでこなしてきた。
赤ちゃんだった長女を僕がお風呂に入れた回数は、両手で数える程度。オムツ替えをした回数なんて、もっと少ないだろう。寝かしつけをしたことや夜泣きのケアをしたことなど、皆無に近い。
当時は、子育てをめぐって妻とケンカになったこともあった。そんなときは決まって、「したくても、仕事が忙しくてできへんねん!」と僕が逆ギレ。勝手かもしれないが、フリーランスという不安定な仕事柄、「稼げるうちに稼がねば!」という想いが強かった。
そのうち、何を言っても無駄だと悟ったようで、長女が生後数ヵ月ほど経ってからは、妻は子育て参加について何も言わなくなった。その代わり、誰かに僕を紹介するときには、「子育て戦力外の」という枕詞(まくらことば)を付けられるようになった。
2012年9月に長男が誕生してからも、僕の子育てに対するスタンスは変わらなかった。基本的に、家族が寝静まった深夜2時過ぎに帰宅し、子どもたちを保育園に送る時間帯は布団の中、というライフスタイル。自宅と同じマンション内に事務所を構えて仕事をしているのだが、それにもかかわらず、家族と顔を合わせない日が続くことも少なくなかった。
ちなみに、家族で夕食を囲んだ回数は、年に5回ほど。子どもたち二人が食卓、妻だけがキッチンでそれを見守るのが常だった。
仕事と両立しながら、日々の食事の用意、掃除、洗濯に加えて、平日は娘の塾や息子のスイミングスクールの送り迎え、週末は息子の少年野球の活動……。何でも器用かつスピーディにこなせる妻のフル稼働のおかげで、子どもたちが小学生になってからも一家の毎日はスムーズにまわっていた。
体育館で突然立つことすらできなくなる
そんな日常が、2021年7月25日に突如終わりを告げる。我が家の要(かなめ)だった妻が、何の前触れもなく倒れたからだ。
その日は、よく晴れた土曜日だった。春の選抜高校野球大会に出場した僕の母校が、夏の甲子園出場を目指して県大会の準々決勝を戦っていた。
その中継をインターネットテレビで見ながら、いつもと変わらずダラダラと仕事をしていた僕。妻はといえば、早朝に長男を少年野球の練習に送り出したあとに中抜けし、小学校のママ友たちと体育館で行われるビーチバレーの練習に参加していた。
母校が劣勢で後半戦を迎えた頃、スマホが鳴った。ディスプレイには、妻の名前が表示されている。電話に出ると、明らかに妻とは違う声で、「はるなさん(妻の名)が熱中症になったみたいなので、すぐ来てもらえますか!」と言われた。
「仕事中(母校を応援中)なのに、マジかよ!」と心のなかで悪態をつきながら、徒歩5~6分のところにある学校へと向かう。校門について目に入ったのは、到着したばかりの救急車の姿。その瞬間、嫌な予感に襲われた。
救急隊員と一緒に体育館に入り、床に寝そべっている妻を発見。なぜか僕は、駆け寄ることも声をかけることもできず、ボーッと突っ立っていた。突然すぎて、どう動けばいいのかさえもわからなかったのだ。
どうやら意識はあるようで、救急隊員と妻のやりとりを通して、右半身の自由が利かないということがわかった。「こりゃ、脳だな」とつぶやく救急隊員。この瞬間、ただごとではないことを悟った。
あとから知ったことだが、現場に居合わせたママ友のなかに看護師の方が数人いたらしく、適切な処置をし、迅速に救急車を手配してくれたという。妻の意識はしっかりしていたし、もしも自宅で倒れていたら、わざわざ救急車を呼ぼうという発想には至らなかったかもしれない。ママ友たちの英断には、まったく頭が下がる思いだ。ちなみに、母校が1-2で惜敗したことは、あとから知った。