NHK「おかあさんといっしょ」でデビューして25年 作詞家もりちよこさんがアノ名曲たちの誕生秘話を明かした

NHK「おかあさんといっしょ」の人気曲から絵本も誕生! 作詞家もりちよこさんにインタビュー【前編】

佐藤 啓子

『ドコノコノキノコ』や『ミライクルクル』『そらそらそうめん』をはじめ、楽しい歌詞を次々と生み出し続けるもりさんはどんなお子さんだったのでしょう?

NHK「おかあさんといっしょ」や「いないいないばあっ!」で、作詞家として活躍すること今年で25年のもりちよこさんにインタビュー。作詞家になったきっかけや、楽曲にまつわる裏話、そして昨年、絵本にもなった人気曲『おっきなちっちゃな物語』にこめられた想いと制作秘話、お兄さんやお姉さんたちとのエピソードからお母さんたちへのエールなど、楽しいお話を前後編でたっぷりお届けします。
作詞家 もりちよこさんとスィラちゃん
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もりちよこ
大阪生まれの神戸出身。作詞家・コピーライター。

1998年、NHK「おかあさんといっしょ」の7、8月の歌『ひまわりとわたあめ』で作詞家デビュー。『たこやきなんぼマンボ』『パンパパ・パン』『ミライクルクル』など、数多くの人気作を手がける。演歌からJ‐POP、K‐POPとそのフィールドは広く、現在作詞を手がけたテレビ番組のエンディング曲『イチカバチカ』(Eテレ「はなかっぱ」)、『イッテラシャキット!!!』(テレビ東京系「おはスタ」)も放映中。

友達はお手製マペットのスィラちゃん。無口で恥ずかしがり屋だった子ども時代

──次々と楽しい楽曲を生み出されるもりさんは、どんなお子さんだったのでしょう。

とっても大人しい子どもでした。無口で恥ずかしがり屋で、いつもひとりで遊んでいました。というのも父と母が薬局をやっていて、兄や姉とは歳も離れていたので放課後は家でひとり。そこで、図工の時間に自分で作ったマペットに、「スィラちゃん」という名前をつけて、登下校のときも手にはめておしゃべりをしながら通っていました。ちょっと変わった子というか、想像癖のある子どもでした。
──想像力がゆたかなお子さんだったんですね。そのころの夢はなんだったのでしょうか。

小学校1年のときに「ぶんがくしゃもりちよこになりたい」という夢がありました。小さかったので文学者がなんなのかよく分からなかったと思うんですが、ひらがなで「ぶんがくしゃもりちよこ」という響きが「なにか偉そうだし、カッコイイし、じゃあぶんがくしゃもりちよこになりたい!」と。

それもあってか、小学校3年のときに物語を書くという課題が出ると、私は夢中になってお話を書いたんですが、その中の『バルスの森』という作品は原稿用紙300枚にもなりました。
──バルスの森!? もりさんが8歳というと、ジブリ映画の『天空の城ラピュタ』に『バルス』という言葉が出てくるよりも前ですね。

はい。映画が上映されたときはビックリしました(笑)。
  • 今ももり家で大切に保管されている「バルスの森」
──しかも300枚、の大作を?

物語を書きだすと楽しくて、また先生が褒めてくださるのがうれしくて、気がつくと大作に。目次をつけて、イラストも自分で描きました。目次には「ドロップの雨」とか「カステラの山」とか「パンの木」とか、食べ物がいっぱい。
──『たこやきなんぼマンボ』や『パンパパ・パン』『おまめ戦隊ビビンビ〜ン』『そらそらそうめん』の発想の源は、そのときすでに!?

そうかもしれません。食いしん坊だったので(笑)

書き上げると母が「世界にたったひとつの絵本ができたね」と、ピンクのリボンで綴じてくれて、先生に提出しました。それがすごくうれしくて、それからも『小さな魔女ピッポーちゃん』とか、『ヘレホピチャク博士のお話』とかいっぱい書いて。……今考えるとネーミングが変わってましたね。

音楽との出会いは地元の少年合唱団

──そんな文学者の卵だったもりさんが音楽に目覚められたきっかけはなんだったのでしょうか?

小学校4年のときに地元の「西宮少年合唱団」に入団したのが大きなきっかけでした。当時ママさんコーラスをしていた母から勧められて入団試験を受けたところ合格して、入団することに。そこでみんなと声を合わせて歌うことの楽しさを知り、どんどん夢中になりました。それと同時にお友達も増え、明るくなっていったんです。中学高校になってからも音楽は大好きで、歌を作っていきたいという夢が生まれました。

子どものころのさびしいがゆえに体得した楽しさの見つけ方や、独特な子どもだったと思うんですが、やいのやいの言わず個性を尊重してくれた母、そして合唱団のおかげで今の私があります。
──合唱団とは素敵な再会があったとお聞きしました。

はい! 私が作詞家デビューしたころ書かせていただいた『かっぱなにさま?かっぱさま!』という歌を、西宮少年合唱団の子どもたちが定期演奏会で歌ってくれたんです。合唱団の後輩たちが自分が作った歌を歌っているというのは、なにものにも代えがたく、うれしかったですね。
──作詞家になられた転機や理由をお聞かせください。

学校を卒業後はコピーライターの仕事をしていました。バブル期で次々と仕事をこなす中で、次第に「流行に消費されるのではなく、人を長く喜ばせるものを書きたい」との思いが強くなっていったんです。そこで広告代理店を辞めて、夢でもあった作詞家を目指すことにしました。といってもすぐになれたわけではないんです。シンガーソングライターとしてコンテストにも出ていて、いいところまで行くのですが、決勝戦までたどり着けない。でも、声をかけて下さる方がいて、ヤマハの音楽教室の教材の歌詞を書かせていただきました。

そして、様々な試行錯誤紆余曲折の日々の中、大きな転機がやってきたんです。友人が「おかあさんといっしょ」のコーラスの仕事をしていて、番組のプロデューサーさんを紹介していただきました。そこからは広告業界で培ったプレゼンの力を発揮して、自分で何案か歌を作って持って行ったんですね。するとその中のひとつ『ひまわりとわたあめ』を採用していただき、ついに作詞家としてメジャーデビューすることができました。

そのとき、ご縁の大切さ、回り道しても無駄なことはひとつもないということ、いくつになってもやりたいことを始めるのに、遅いなんてことはないんだと改めて思いました。
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