笠原将弘「料理は段取りが命。父の教えは料理の道に進んだときにめちゃくちゃ生きた」

【WEBげんき連載】わたしが子どもだったころ #7笠原将弘

ライター:山本 奈緒子

【WEBげんき連載】わたしが子どもだったころ

「あの人は、子どものころ、どんな子どもだったんだろう」
「この人の親って、どんな人なんだろう」
「この人は、どんなふうに育ってきたんだろう」

今現在、活躍する著名人たちの、自身の幼少期~子ども時代の思い出や、子ども時代に印象に残っていること、そして、幼少期に「育児された側」として親へはどんな思いを持っていたのか、ひとかどの人物の親とは、いったいどんな存在なのか……。

そんな著名人の子ども時代や、親との関わり方、育ち方などを思い出とともにインタビューする連載です。

第7回は、予約のとれない超人気日本料理店「賛否両論」の店主・笠原将弘さんです。

目立ちたがり屋でお調子者だったのは、今と同じ(笑)

撮影/岩田えり(以下同)
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僕の実家は東京・武蔵小山で焼鳥屋をやっていました。住居も店の2階だったので、学校から帰ると親父が仕込みをしていて、お袋が開店の準備をしている、というのが日常でした。だからサザエさんみたいに家族みんな揃って、という食卓ではありませんでしたが、近所には祖父母もいたし、店の常連さんにも可愛がってもらったし、寂しいということは全くなかったですね。実家のすぐ近くに武蔵小山商店街があって、それこそどのお店もツケがきくほどの顔見知り。街に育てられたようなものだったで、悪いことはできませんでしたね(笑)。

僕はどんな子どもだったかというと、今と全く変わっていなくて、お調子者で目立ちたがり屋。勉強は好きではなかったけど、要領が良かったのでバカではなかった。運動もできたし、けっこう人気者だったんですよ。「笠原がいないと始まらない」とか言ってもらえて、生徒会をやったり、運動会でもリーダー的なことをやったり、何かしら前へ前へと出ていました。当時はベビーブームの世代でしたから、目立たなきゃ負けだ、みたいな意識もあったんです。

そのころは、「親父と同じ料理の道を」とは全く思っていませんでした。親父も「跡を継げ」と言ったことは一度もなかったし。それでムツゴロウさんの番組を見ればムツゴロウ王国で働きたいなと思い、ドリフターズを見ればお笑いもいいなと思い……。夢の持ち方も、そんなお調子者な感じでしたね。

ただ今思えば、よく親父の手伝いはしていたので料理人の素地は身についていたと思うんです。とくに親父は年末になると、近所の人に頼まれておせちを作っていたので、僕も小学生ながら里芋の泥を落としたり、卵を100個割ったり、おつかいに行ったり。そのとき親父は厳しくて、何でも「段取りよくやれ」と口を酸っぱくして言うんです。手ぶらで移動するなとか、一番早い手順を考えろとか。たとえばおつかいだって、先に重い食材を買ってしまうとずっとそれを持ち歩くことになって非効率ですよね。常にそういった最適策を考えて行動しろ、というわけです。料理というのは段取りが命なんですけど、この親父の教えは、後に自分が料理の道に進むことになったときにめちゃくちゃ生きてきました。

高校1年で母を亡くし、やる気を喪失

転機となったのは、中学生のときに親がオーブンレンジをもらってきたことです。当時のオーブンレンジって今よりうんとデカくて、置ける場所が僕の部屋しかなかったんですね。それで、普通はステレオとかが置かれているであろう中学生の部屋に、なぜかオーブンレンジがドーンとある(笑)。仕方がないので付いていたレシピ本を見ていたら、ローストチキンとか本格的なケーキの作り方とかが載っているんですよ。「スゲーな、こんなのが作れるのか」と驚いて、自分で作り始めたんです。

ところがケーキだけは、レシピ本通りにやってもスポンジが膨らまなかったりして、なかなか上手くできない。悔しくて何度も挑戦していたら、いつの間にかお店の商品のようなものが作れるようになってきたんです。友達の誕生日にケーキを焼いたり、店の常連さんに出したりして、けっこう喜ばれていました。ただそのころもまだ「料理の道に進みたい」とはなっていなくて。当時はラジオ『オールナイトニッポン』が全盛期だったので、また影響を受けて「俺は放送作家になる!」なんて思っていました(笑)。

高校生になると、お袋が「大学に行ってほしい」というタイプの人だったので、おぼろげに「それなら……」と思うようになっていました。ところがそのお袋が、高校1年生のときに病気で亡くなってしまったんです。僕はショックでやる気がなくなってしまったんです。寂しさもあって、遊んでばかりいました。といってもグレたりしたわけではなく、当時はシブカジブームだったので、オシャレに目覚めてただ渋谷をフラフラしていた、という感じですが。

「料理で世界と戦いたい!」と思った

そうこうしているうちに高3になって、いい加減進路を決めなくてはいけなくなった。どうしようかなあと思っていたときに、ちょうどパティシエのワールドカップを追ったドキュメント番組をやっていたんです。それが、日本チームがものすごく強くてカッコ良かった。そのころの日本というのは、まだサッカーのワールドカップに出たこともなければ、野球のメジャーリーグだって夢のまた夢、という時代。世界で戦える、なんて発想は全くなかったんです。でもそのパティシエたちは日の丸のユニフォームを着て、フランスで世界と互角に戦っていた。優勝こそできなかったけど、他の国から圧倒的なリスペクトを受けていたんです。僕は「食で世界と戦えるんだ!」ということにすっかりロマンを感じてしまった。それで親父に「パティシエになろうと思う」と伝えた、というわけです。

親父は何も反対しない人だったので、「そうか」と言ってはくれたんですけど、パティシエのツテはなかった。「日本料理ならいくらでも良いツテがあるんだけどな」と言うので、僕もいい加減なもので、なら、そうしようかと。日本料理でも世界と戦えるし、ということで「お願いします」と。大事なのは、料理の種類ではなく、「日本代表」という男のロマンだったんです。ここでも、目立ちたがり屋でお調子者な性格がよく出ていますよね。
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