【WEBげんき連載】わたしが子どもだったころ
「この人の親って、どんな人なんだろう」
「この人は、どんなふうに育ってきたんだろう」
今現在、活躍する著名人たちの、自身の幼少期~子ども時代の思い出や、子ども時代に印象に残っていること、そして、幼少期に「育児された側」として親へはどんな思いを持っていたのか、ひとかどの人物の親とは、いったいどんな存在なのか……。
そんな著名人の子ども時代や、親との関わり方、育ち方などを思い出とともにインタビューする連載です。
第7回は、予約のとれない超人気日本料理店「賛否両論」の店主・笠原将弘さんです。
目立ちたがり屋でお調子者だったのは、今と同じ(笑)
僕はどんな子どもだったかというと、今と全く変わっていなくて、お調子者で目立ちたがり屋。勉強は好きではなかったけど、要領が良かったのでバカではなかった。運動もできたし、けっこう人気者だったんですよ。「笠原がいないと始まらない」とか言ってもらえて、生徒会をやったり、運動会でもリーダー的なことをやったり、何かしら前へ前へと出ていました。当時はベビーブームの世代でしたから、目立たなきゃ負けだ、みたいな意識もあったんです。
そのころは、「親父と同じ料理の道を」とは全く思っていませんでした。親父も「跡を継げ」と言ったことは一度もなかったし。それでムツゴロウさんの番組を見ればムツゴロウ王国で働きたいなと思い、ドリフターズを見ればお笑いもいいなと思い……。夢の持ち方も、そんなお調子者な感じでしたね。
ただ今思えば、よく親父の手伝いはしていたので料理人の素地は身についていたと思うんです。とくに親父は年末になると、近所の人に頼まれておせちを作っていたので、僕も小学生ながら里芋の泥を落としたり、卵を100個割ったり、おつかいに行ったり。そのとき親父は厳しくて、何でも「段取りよくやれ」と口を酸っぱくして言うんです。手ぶらで移動するなとか、一番早い手順を考えろとか。たとえばおつかいだって、先に重い食材を買ってしまうとずっとそれを持ち歩くことになって非効率ですよね。常にそういった最適策を考えて行動しろ、というわけです。料理というのは段取りが命なんですけど、この親父の教えは、後に自分が料理の道に進むことになったときにめちゃくちゃ生きてきました。
高校1年で母を亡くし、やる気を喪失
ところがケーキだけは、レシピ本通りにやってもスポンジが膨らまなかったりして、なかなか上手くできない。悔しくて何度も挑戦していたら、いつの間にかお店の商品のようなものが作れるようになってきたんです。友達の誕生日にケーキを焼いたり、店の常連さんに出したりして、けっこう喜ばれていました。ただそのころもまだ「料理の道に進みたい」とはなっていなくて。当時はラジオ『オールナイトニッポン』が全盛期だったので、また影響を受けて「俺は放送作家になる!」なんて思っていました(笑)。
高校生になると、お袋が「大学に行ってほしい」というタイプの人だったので、おぼろげに「それなら……」と思うようになっていました。ところがそのお袋が、高校1年生のときに病気で亡くなってしまったんです。僕はショックでやる気がなくなってしまったんです。寂しさもあって、遊んでばかりいました。といってもグレたりしたわけではなく、当時はシブカジブームだったので、オシャレに目覚めてただ渋谷をフラフラしていた、という感じですが。
「料理で世界と戦いたい!」と思った
親父は何も反対しない人だったので、「そうか」と言ってはくれたんですけど、パティシエのツテはなかった。「日本料理ならいくらでも良いツテがあるんだけどな」と言うので、僕もいい加減なもので、なら、そうしようかと。日本料理でも世界と戦えるし、ということで「お願いします」と。大事なのは、料理の種類ではなく、「日本代表」という男のロマンだったんです。ここでも、目立ちたがり屋でお調子者な性格がよく出ていますよね。