ハナコ秋山寛貴「美大を蹴ってお笑い芸人の道に。僕の役割はMr.ビーンのエキストラ」

【WEBげんき連載】わたしが子どもだったころ #12ハナコ秋山寛貴

編集者・ライター:山口 真央

【WEBげんき連載】わたしが子どもだったころ

「あの人は、子どものころ、どんな子どもだったんだろう」
「この人の親って、どんな人なんだろう」
「この人は、どんなふうに育ってきたんだろう」

今現在、活躍する著名人たちの、自身の幼少期~子ども時代の思い出や、子ども時代に印象に残っていること、そして、幼少期に「育児された側」として親へはどんな思いを持っていたのか、ひとかどの人物の親とは、いったいどんな存在なのか……。

そんな著名人の子ども時代や、親との関わり方、育ち方などを思い出とともにインタビューする連載です。

今回は、お笑いトリオ・ハナコの秋山寛貴さんです。『キングオブコント2018』で優勝してブレイク後、ネタ番組への出演だけでなく、エッセイやイラストの執筆、さらにはラジオパーソナリティーを務めるなど、幅広く活躍しています。

家計を気にしてメニューを選ぶような心配性な子

撮影/市谷明美(以下同)
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手のかからない子だと、小さなころから言われていました。自分の欲求を満たすよりは、まわりが喜ぶほうが幸せだと思うタイプ。何か理由があってこの性格になった訳じゃなく、もとからだと思います。4つ下の弟がやんちゃなことをして怒られるたび、僕が空気ばかり読んでいるせいで申し訳ないな、と感じていました。

出身は岡山県です。両親は、映画やお笑い好き。今で言う、ゲームの実況中継を見るみたいな感覚で、父ちゃんがやる「バイオハザード」を見ていた思い出があります。週末はじいちゃん、ばあちゃんの店に行くことが多かったですね。岡山県にある、最上(さいじょう)稲荷の参道にある煎餅屋さんです。店の手伝いをする父ちゃんの横で、絵を描いたり、漫画を読んだり、のんびりと過ごしていました。たまに隣のたい焼き屋のばあちゃん、通称「たいばあ」が、たい焼きやラムネをくれるのがうれしかったです。

「うちは貧乏だ」と母が言っていたので、贅沢しちゃいけないと子どもながらに思っていて。レストランのメニューで迷ったときは、必ず安いほうを選ぶようにしていました。ある日ばあちゃんから「買い物に行くからほしいものある?」と聞かれ、僕はつい甘えて、いつもより数十円高いポテトチップスをねだったんです。そしたらばあちゃんが、何味を食べたいかわからなかったからと、全部の味を買ってきてしまった。素直に喜べばいいのに、常日頃からお金の心配をしていた僕は「とんでもないことしてくれた!」と思いました。口には出せないんで、おばあちゃんには「あ、ありがとう……」と。そのときの僕の顔は、ちょっと引きつっていたと思います(笑)。

漫才の甲子園の予選大会に3年連続出場しました

小学生のときにドハマりしたバラエティ番組は、『笑う犬の冒険』や『笑う犬の生活』。弟と「テリーとドリー」のコントを真似しているのが、ホームビデオに残っています。父が録画していた「Mr.ビーン」も大好きで。録画を何度も見返して、友達が遊びにきたときは見せて布教活動していました。Mr.ビーンは流行っていたので、学校で真似するやつもいたんですよ。それを見るたび、心のなかで「Mr.ビーンはそんなやつじゃない!」と叫んでいました。表には出さなかったけど、お笑いオタクだったんです。
中学、高校の間も、お笑い芸人の出るネタ番組が大好きでした。でも、ビビりな性格なので、プロを目指すなんて思ってもいませんでしたけど。転機は、高校生のための漫才の大会に出場したこと。高1のとき、仲の良かった友達と盛り上がり、勢いで「M‐1甲子園」の予選大会に出ました。家族もおもしろがって、みんなで応援しに来てくれて。なのに本番直前に「こんなことをするなんて一生の恥だ」と急に不安におそわれてしまったんです。そんなテンションだから舞台に上がっても、お客さんに届かないぐらいの声量になっちゃって、ボロボロの結果でした。帰りの車でばあちゃんが、うれしそうに「ヒロくんが、こんなんすると思わんかった」って言ってくれたことが、唯一の救いでしたね。

あんなに辛い思いをしたのに、時間がたつと、うまくできなかった悔しさが湧いてきたんです。一緒に出場した友達が忙しくなってしまったので、高2は別の友達を誘って「M‐1甲子園」に出場しました。高1よりも楽しくできた実感があって、結局、高3でも挑戦することに。しかも最後は、岡山の予選大会で優勝! 高1でビビったところからスタートして、優勝できるまで成長できたことは、ものすごい達成感がありました。
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