武田双雲「我が家は両親を含めみんなADHD。とにかく“今を生きる”両親でした」

【WEBげんき連載】わたしが子どもだったころ #5武田双雲

ライター:木下 千寿

【WEBげんき連載】わたしが子どもだったころ

「あの人は、子どものころ、どんな子どもだったんだろう」
「この人の親って、どんな人なんだろう」
「この人は、どんなふうに育ってきたんだろう」

今現在、活躍する著名人たちの、自身の幼少期~子ども時代の思い出や、子ども時代に印象に残っていること、そして、幼少期に「育児された側」として親へはどんな思いを持っていたのか、ひとかどの人物の親とは、いったいどんな存在なのか……。

そんな著名人の子ども時代や、親との関わり方、育ち方などを思い出とともにインタビューする連載です。

第5回は、2男1女という3人のお子さんの父親でもある書道家の武田双雲さんです。

書道家の母は、僕が書道家となったことに驚いています

撮影/岩田えり
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僕は新聞記者の父と、書道家の母との間に生まれました。我が家は両親を含めみんなADHD。とにかく“今を生きる”両親で、今、やれることをやるという人たちでした。時間になったからごはんを作って食事を食べさせる、お風呂に入れる、寝かせる、洋服を着させる、学校へ行かせる……そういった感じで育ててくれていたようです。

幸い、母は掃除や片付け、料理など家事をキッチリやる人なので、生活で不便を感じることはありませんでした。ただとてもエネルギッシュな両親でしたから、ケンカするときは激しくて、それはイヤだったかな(笑)。大人になってほかの家庭を知り、「世のお父さんお母さんは、こんなに穏やかなのか」とびっくりしました。

習い事はたくさんやっていました。空手、エレクトーン、少林寺拳法、公文、水泳、野球、音楽教室など……。母があちこちに連れていってくれて、月曜から日曜まで結構忙しくしていたと思います。なぜそんなにたくさん習い事をさせてくれたのかは分かりませんが、母の目についたものだったんじゃないかな。バブル期で、習い事ブームでしたしね。

通っていた僕はというと、今もそうなのですが、基本的に反応だけで生きていて「目の前にあるから、それをやる」という感覚。好き嫌いや「やりたい」と「やらなきゃいけない」の区別がないんです。習い事の時間だから教室に行き、やることをやって、帰宅するというだけ。どれがとくに楽しい、というのはない。だから3歳で始めた書道に対しても、まったく思い入れはありませんでした。母にしても自分が書道家だったから僕に教えたのであって、僕を書道家にしようなんて1ミリも考えたことがない人ですから、今、僕が書道家となったことに驚いています(笑)。

学校生活では「なんだかうまくいかないな」と戸惑うことが多かった

僕はひとことで言えば“多動”な子どもでした。ずっときょろきょろ、ウロウロしていて全然集中できないし、思ったことは言う。授業で気になることがあると、すぐに手を挙げて先生に質問してしまう。授業をスムーズに進めたい先生にしてみれば、「邪魔された」という気分にもなるでしょうね。

かといって、我慢して周りと合わせるということもできないので、学校生活では「なんだかうまくいかないな」と戸惑うことが多かったです。授業中は、暇つぶしによく字で遊んでいました。わざと崩したり、かわいくしたり、カッコよくしたり、“ヘタ字選手権”を自分ひとりでやったり……(笑)。妙に明るい子で、周りからは「明るいよね~」と言われていました。

人間ってそれぞれ凹凸があると思うのですが、僕はその凹凸がとくに激しいタイプ。ある領域ではめちゃくちゃ明るいけれど、違う領域ではパッと殻を閉じてやる気がまったく出なくなってしまう。面倒くさがりで努力できない、言ったことを実行できないなど、ちゃんとしなければならない職場であれば、僕は単なるポンコツです。

いろいろな巡り合わせで、今は『武田双雲』として自分に合ったキャラクター、仕事スタイル、ライフスタイルで過ごしているから、よく見えるだけ。自分がいる環境を変えたら、周りからの見られ方、受け取られ方が変わったということで、僕自身が何か変わったわけじゃないんですよね。
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