笠原将弘「料理は段取りが命。父の教えは料理の道に進んだときにめちゃくちゃ生きた」

【WEBげんき連載】わたしが子どもだったころ #7笠原将弘

ライター:山本 奈緒子

焼鳥屋を継いだものの、客が全く来ず…

そこで親父が「どうせ働くなら最高峰で」と見つけてきてくれた修行先が、吉兆グループの「正月屋吉兆」でした。料理の世界は厳しいぞと聞いていたので、よく板前漫画にあるような鉄拳制裁をイメージしていたら、現実はそれ以上で(笑)。でも全然苦じゃありませんでした。見るもの全てが新鮮だったし、「頑張っていたらこんな料理が作れるようになるんだ」という目標もあったし。僕は性格も明るかったので先輩にも可愛がられて、本当にいい修行時代でしたね。今なら世間からは絶対NGな指導方法だったかもしれませんけど、感謝しかありません。

修行期間中に結婚もしました。ところが9年が経ったところで、今度は親父がガンになってしまったんです。それで「治ったら一緒に店をやろう」と吉兆を辞めたのですが、残念ながら夢叶わぬうちに親父は亡くなってしまい……。僕は28歳にして、一人で焼鳥屋をやっていくことになりました。最初のほうこそ常連さんも変わらず来てくれていたんですけど、そもそもは親父とお喋りしたかった人たち。だんだん足が遠のいていくし、新規の客も来ないし、「あれ、今日もお客さんが一人だ」みたいな日々が続いて。そうすると食材も使い回しになって鮮度が落ちるし、儲かっていないからいい食材も買えないし、完全に負のスパイラル。料理は食べてくれる人がいないと意味がないということを、このときに痛感したんですよね。
でもそのうち割り切って、どうせ潰れるなら好き勝手やってしまおうと考えた。それで吉兆で習った本格的な和食とか、暇なときに学んだ中華とかフレンチの一品を作ってメニューに載せていたら、「何だこの店?」となったんでしょうね。だんだんとお客が増えていって。だって赤ちょうちんの店なのに、「玉ねぎのキッシュ」だとか「ニンジンのムース」だとか表の黒板に書いていますから(笑)。気づけば、予約なんて取るような店じゃなかったのに予約で一杯になって、雑誌の取材まで来て。急にブレイクしちゃったんです。

そうするとまわりから、「マスター、もっと激戦区で勝負しなよ」と言われるようになり、自分でも「吉兆でやっていたようなコース料理を出したいな」という思いが芽生えてきてしまい。散々迷った末に、32歳で恵比寿に現在の『賛否両論』を出すに至ったわけです。店はおかげ様でずっと好調を維持させてもらっていますが、それはあの焼鳥屋での4年半があったから。吉兆での経験だけだと、おそらく市井の感覚が分からないままだったと思うんですよ。でも焼鳥屋時代に、「人って給料日前は飲みに来る余裕がないんだな」とか「デートで奢れる金額ってこれくらいだな」とか、肌感覚で学んだ。だから『賛否両論』を始めたとき、リーズナブルな価格設定だけはすごく意識しましたし、今もそのコンセプトはブレずにやっています。

子どもたちには料理よりもマナーを口うるさく言った

店のほうは順調だったのですが、私生活では10年前に妻を亡くしました。僕たちには長女、次女、長男という3人の子どもがいたのですが、当時、長男はまだ小学校の低学年。でも僕は店があるのでなかなか時間を作れず、子どもたちの面倒は主に妻の姉が見てくれていました。それでも休みの日は必ずみんなで一緒にご飯を食べたし、運動会などイベントがあるときのお弁当だけは、誰にも負けないぐらい豪華なものを作った。長男が高校生になるころには少し余裕も出てきたので、毎朝5時半に起きて、3年間お弁当を作ってあげることもできました。子どもたちには寂しい思いをさせたと思いますが、そのわりにはグレもせず素直に育ってくれて。今では上の娘たちとは一緒に晩酌をするなど、いい時間を持たせてもらっています。

そんなふうにたいした子育てはできなかったので、「こう育てた」と自慢できるようなものはありません。僕は子どもたちと話すときも、けっこう自分の仕事の話ばかりしていたんですよ。というのも、子どもに合わせてばかりいると話が広がらなかったから。「学校どうだった?」とか聞いても「それ、前も聞いていたじゃん」と言われて終わってしまうんですよね。それであるとき自分の話をしたら、意外と興味を持って聞いてくれて、「こっちのほうがウケるんだ」と気づいた。以来、「今日はこんな人に会ったんだ」とか、「こんなことがあったんだけど、どう思う?」とか。そうすると子どもたちもいろいろ意見を言ってくれて、おかげでけっこういい感じにコミュニケーションを取ることができていたと思います。
僕の仕事でもある料理に関しては、子どもたちに教えたことはありません。むしろ、外食したときにマナーのほうを厳しく伝えていました。たとえば頼んだ料理は絶対残すなとか、まわりのお客に迷惑をかけるなとか。フォークの使い方がどうのこうのより、人としての礼儀を口うるさく言った感じですね。

でもそれ以外は何も言わなかった。好き嫌いも直させようとは思わなかったので、長男は野菜嫌いです。「デートのときに嫌われるぞ」とだけは言いましたが(笑)、お弁当は好きなものだけ詰め込んであげていました。やっぱりご飯は、喜んで食べてもらうほうが嬉しいですから。作るのも同じで、自分が楽しんで作らないと子どもだって楽しくないはず。苦痛に感じながら作るぐらいなら、日本は安くて美味しい外食もテイクアウトもいっぱいあるんだから、そっちを選んだほうが絶対にいいと思います。

ちなみに僕は、休みの日はあまり料理をしたくなかったので、けっこう外食をすることが多かったですね。だからコロナ禍で初めて、家族にしっかりご飯を作ったんです。このときは毎日子どもたちのリクエストを聞いて、作ったこともないフレンチやイタリアンにトライするのが楽しくて。カレーなんてスパイスから作りました。だから今自宅のキッチンには、買ってはみたものの使わなかったスパイスや変わった調味料が大量にあります。ちょっと邪魔でもあるんですけどね(笑)。
笠原将弘

東京・恵比寿の人気日本料理店「賛否両論」店主。料理人歴30年以上。お店での仕込みの技や手法は、簡単家庭料理の提案から本格的な日本料理の紹介まで、多くのファンに支持され続けており、メディアにも引っ張りだこ。『鶏大事典』、『超・鶏大事典』、『常備薬大事典』(すべてKADOKAWA)など、日本料理のスキルを高める著書多数。
『賛否両論 笠原将弘 保存食大事典』
KADOKAWA
【内容紹介】
梅干し、らっきょう、いくらしょうゆ漬け、栗の渋皮煮、べったら漬け……。日本には数多くの伝統的保存食がある。人気店『賛否両論』の料理人・笠原将弘氏は、30年の料理人生活の中で、改良に改良を重ね究極の保存食レシピを生み出してきた。その至極のレシピ45を惜しみなく紹介。保存食を用いた料理レシピも多数展開されており、まさに永久保存版の一冊。
撮影/岩田えり 文/山本奈緒子
27 件
やまもと なおこ

山本 奈緒子

ライター

1972年生まれ。愛媛県出身。放送局勤務を経てフリーライターに。 『ViVi』や『VOCE』といった女性誌の他、週刊誌や新聞、WEBマガジンで、 インタビュー、女性の生き方、また様々な流行事象分析など、 主に“読み物”と言われる分野の記事を手掛ける。

1972年生まれ。愛媛県出身。放送局勤務を経てフリーライターに。 『ViVi』や『VOCE』といった女性誌の他、週刊誌や新聞、WEBマガジンで、 インタビュー、女性の生き方、また様々な流行事象分析など、 主に“読み物”と言われる分野の記事を手掛ける。

げんきへんしゅうぶ

げんき編集部

幼児雑誌「げんき」「NHKのおかあさんといっしょ」「いないいないばあっ!」と、幼児向けの絵本を刊行している講談社げんき編集部のサイトです。1・2・3歳のお子さんがいるパパ・ママを中心に、おもしろくて役に立つ子育てや絵本の情報が満載! Instagram : genki_magazine Twitter : @kodanshagenki LINE : @genki

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