妻が家にいなくなってから、ある女性と頻繁(ひんぱん)に連絡を取り合うようになった。
実は、妻が倒れたその日にソッコーで連絡。ありがちかもしれないが、それ以来、僕は妻とは別の女性と急速に距離を縮めていった。
その女性が足繁く我が家に訪れるようになるまでには、そう時間はかからなった。
気がつけば、食事の用意から洗い物、掃除、洗濯、小6の娘の塾や小4の息子のプールの送り迎えまで、「ワンオペ育児」を支えてくれる心強い存在に。妻が倒れた数日後には、その女性はもう僕たちの暮らしに溶け込んでいた。
まるで新しいお母さんができたみたいで、子どもたちも彼女が家にやってくると、とてもうれしそうだ。帰り際にはいつも、「次はいつ来るの?」と別れを惜しむようになった。
妻がいなくなった我が家の救世主となったのは、妻のママ、つまり「義母」。「ワンオペ育児」がスタートしてから、毎週2泊3日、ときには3泊4日のペースで通ってきてくれるようになったのだ。
妻の実家から我が家までは、クルマで90kmほどの距離がある。片道1時間45分以上ある道のりを毎週ハンドルを握り、大量の食材とともに登場。子どもたちだけでなく、僕自身も義母が来るのが待ち遠しくて仕方なかった。
子どもたちがどんなわがままを言っても、優しくこたえてくれる義母に、どこまで甘えるかは難しいところ。ただ、とにかく余裕がない僕は、100%以上甘えてしまっていた。
義母が子どもたちの朝食の用意を済ませ、学校へ送り出し、洗い物を終わらせ、洗濯物を干している8時すぎに、「おはようございます」と起床する僕。義母がいてくれる日だけは、妻が倒れる前と同じような生活を送ることができた。
義母の存在がありがたかったのは、家事や育児をサポートしてもらえるからだけではない。僕のなんちゃって料理やレトルトメニューと違い、食卓に並ぶ手料理の数々が、“我が家の味”を思い出させてくれたのだ。
義母が我が家に来てくれた日は、義母と娘は自宅で、僕と息子はワンフロア下にある仕事場で寝るようにしていた。
娘が学校のお泊まりイベントで家を空ける日があったのだが、「バアバとお父さんと3人で寝ようよぉ」と義母にねだる息子と、「それはダメなの」と何度もたしなめる義母……。なんとも気まずいシーンに遭遇してしまった僕は、聞こえないふりをしてやり過ごした。
義母が僕らの面倒を見てくれている間、当然、義父は一人で過ごすことになる。そのことが申し訳なくて仕方なかったが、「気にしなくていいのよ」と義母。
そして、毎週「俺のことはいいから、早く行ってやれ」と義父が快く義母を送り出してくれていたことを、ずいぶん後になってから僕は知った。二人には、感謝してもしきれない。
妻のママ友をはじめ 多くの人たちの励ましが支えに
僕たち家族のことを気にかけ、救いの手を差し伸べてくれたのは、義母や義父だけではなかった。
妻が倒れた4日後の7月28日には、妻の飲み友だちでもあったママ友2名とLINEで連絡を取り合うようになったのだ。
励ましてくれるだけでなく、育児のアドバイスをくれたり、家事の手抜きノウハウを教えてくれたり、学校からの連絡事項を共有してくれたりと、事あるごとに親切なLINEが届いた。
さらには、寂しい想いをしている子どもを気づかって、遊びに連れて行ってくれたことも。「子育て戦力外」だった僕にとって、ママ友たちの存在はとても心強かった。
また、手料理を差し入れしてくれたママ友もいた。ツライ状況のときこそ、そういった思いがけない優しさが身にしみたものだ。ただ、そのママ友に申し訳ないことをしてしまったことがある。
我が家のインターフォンは壊れているので、ドアをノックするという原始的な方法で訪問を知らせてもらっている。そのママ友が餃子を届けてくれたとき、僕は食事の準備を手伝わない子どもたちに絶賛ブチ切れ中。ヒートアップしていたせいか、ノックの音にまったく気づかなかった。
「ええかげんにせぇよ!」とシャウトしまくっているときに、娘と息子が「誰か来たよ」と言っても、「ウソこけ! ごまかすな!!」とさらにヒートアップ。15分ほどすぎて怒りがおさまり、険悪ムードでいつものごとく“黙食”をしていたら、再びトントンとドアをノックする音が聞こえるではないか……。