【令和時代のベストな子育てのあり方とは? カウンセリングの現場で長年にわたり親子関係の変化を見てきた公認心理師・臨床心理士の信田さよ子さんに、子育て環境に詳しいライターの髙崎順子氏が取材。時代とともに家族観や子育てのあり方が変わってきた背景を探る】
子どもだけの留守番は『放置』という児童虐待になる──2023年10月、埼玉県議会に自民党から提議された虐待禁止条例の改正案。親子の生活実態にそぐわない内容に9万筆もの反対署名が集まり、改正案は撤回されましたが、大きな波紋を呼びました。
共働き親の世帯が多数派となる中、学童保育など子どもの居場所作りは追いつかない。虐待はしたくないと日々苦心する親たちを、虐待禁止を掲げる非現実的な政策がさらに追い詰める──その背景には、時代とともに変わる家族観・子育てのあり方と、働き方など社会の仕組みとのミスマッチが潜んでいます。
戦後の高度経済成長、90年代のバブル崩壊、二つの大震災とコロナ禍など、いくつもの節目を経て、日本社会は大きく変わってきました。家族と親子のあり方も当然、変化する。親は自分が育てられてきたのとは違う、新しい価値観で我が子を育てることを求められています。
そんな中で令和の親たちは、どのような心持ちで子育てに向き合えばよいでしょう。明日からの子育てで実践できる、具体的な行動のヒントはあるでしょうか。
40年間、依存症や虐待のカウンセリングに携わり、親子関係について多くの著書を記してきた、公認心理師・臨床心理士の信田さよ子さんに伺います。
【信田さよ子(のぶた・さよこ) 公認心理師・臨床心理士。1946年生まれ、お茶の水女子大学大学院修士課程終了。病院勤務を経て、1995年原宿カウンセリングセンターを設立。アルコール依存症や摂食障害、DV、児童虐待、性暴力など、各種ハラスメントの加害者・被害者へのカウンセリングを行う。著書に『アダルト・チルドレン』(学芸みらい社)、『母が重くてたまらない』(春秋社)、『後悔しない子育て 世代間連鎖を防ぐために必要なこと』(講談社)、『家族と厄災』(生きのびるブックス)など多数。公益社団法人日本公認心理師協会会長】
家族の歴史を作ってきたのは母親たち
──信田先生はカウンセリングの現場で40年間、様々な家族を見ていらっしゃいました。日本の親子関係は、どのように変化しているのでしょう。
信田さよ子さん(以下、信田):まず最初にお伝えしたいのは、私は医師でも研究者でもありません。私の現場は開業のカウンセリングセンターで、依存症や引きこもり、摂食障害、DVなどの問題をかかえた人々の語られる言葉をとおして、親子や家族を見てきたという前提があります。
おそらく1000人を超える人々をカウンセリングする中で、日本の家族や子育てのあり方の変化を感じてきました。
日本では明治以降、父親が仕事など社会的な面を担い、家族は母親が支えるという「性別役割分業」が進みました。その母親を下支えするのが一家の娘で、その娘が子を持ってまた母になる、と続いてきた。多くの家庭で、父親も息子も、家族の支え役としては不在だったと言えます。
カウンセリングしていると、家族の中にとても分かりにくい形で、支配と暴力がはびこっているさまが多く見られます。「あなたのために」という言葉で、愛情の衣を着せて、母親が子どもを支配する。そして父親は育児に介入しないことで、その支配を温存させてきた。
目立った虐待がない家庭でも、抑圧は確かにそこにあり、子どもたちに逃げ場を与えてきませんでした。
その抑圧の中に育った娘たちは、母を重く感じるようになります。自分が母親になった時には、「私は母のようになりたくない」「母と同じように子を育てたくない」と願う。
戦後の日本の家族の歴史は、そんな娘たちの願いが作ってきたと言えます。
──その娘たちが母親になり、自分の母親とは違う子育てをすることで、家族の歴史を変えてきた、ということですね。
信田:はい。ですから日本の親子関係や子育ての変化を考える際には、世代の違いから母親たちを見ていく必要があります。そしてその世代の違いには、社会の変化が大きく関係しています。
この時に一つ気をつけたいのは、母親たちを語るときに、その背後に家庭の中に不在だった父親を見る必要があるということです。母親だけを責めるのでは不十分でしょう。
子育てに関わろうとせず、傍観者の位置を取っていた父親もまた、時代の変化の一つの要因になっています。
「専業主婦になるしかなかった」団塊の母親たち
──社会の変化と関係する母親たちの世代の違い、というのは、どのようなものでしょう。
信田:今から40年ほど前は、いわゆる団塊の世代(敗戦後の1947年~49年生まれ)の女性たちが、母親として子育ての真っ最中でした。2000年代はその娘たち、つまり団塊ジュニアの女性たちが母親になって子育てを始めた時代です。
団塊の世代の母親たちは、敗戦によって大きく体制が変わり戦後民主主義の理想が掲げられ、平和主義と男女平等教育が謳われる中で育ちました。
この世代の受けた教育では、今よりもはるかに「理念としての男女平等」が力強かったのです。
同時に、男女は恋愛を経て結婚するものという、愛と結婚と生殖の三位一体説による「ロマンティックラブ・イデオロギー」の影響も深かったのです。
しかし、彼女たちが成人した60年代末には、現実の社会では男女差別がまだまだ大きく、大卒の女性の就職先は少なく、採用枠も初任給の額も大きく男女で差別されていた。
育休や保育園などの制度も充分でなく、四年制大学を出た女性たちは結婚したら、専業主婦になるしか道がありませんでした。
団塊の母たちの怒りと恨み
──統計でも、1980年は専業主婦世帯が大多数を占めています。
信田:団塊世代の女性たちは専業主婦率がもっとも高かった。しかも核家族化が進み、子どもができると母親が一人で子育てをするしかなかった。
ワンオペ育児という言葉もなく、夫は仕事最優先で、家のことは妻に任せきりというケースがほとんど。育児に無関心な傍観者のポジションを取り、問題があった時だけ「お前の教育が悪い」と妻を責める始末でした。
この世代の母親は夫婦間で男女平等の理念が裏切られ、夫に対して凄まじい怒りと恨みを抱いている人がたくさんいました。「こんなはずではなかった」と。
その母たちの怒りと恨みの向かう先は多くの場合で子どもたち、特に同性の子である娘たちでした。
──実は私も団塊の世代の親から生まれた娘ですが、母親は「男・女」の性別の意識が強く、きょうだいの中でも息子と娘で扱いが変わることがありました。父親に関しても「お父さんは変わってしまった」「あんなに変わってしまうなんて、騙された」と言っていたのを覚えています。
信田:夫が孤立する妻を支えず放置したことで、母と子、特に母と娘との密着度が高まる要因になったことは、多くの専門家が指摘しています。
母親が夫婦間の愚痴や鬱憤を娘たちにぶつけて、自分をケアする役目を負わせる。子どもの受験や就職に我がことのように熱心に関わり、「あなたのため」と言いながら、自分にできなかったことを娘を身代わりにして叶えようとする。
娘たちには自分と同じ専業主婦ではなく、学歴を得ていい職業に就くこと望む人もいました。
──団塊ジュニアは、激しい受験戦争にさらされた世代でもあります。
信田:そうして育てられた団塊ジュニアの子どもたちには、「高学歴で一流企業の総合職」という母の望みを叶えた人がいた一方、摂食障害やひきこもりなどの精神的な問題を抱える人も続出しました。
私は書籍の出版やメディア取材をとおしてキャリアの女性たちにお会いするいっぽうで、カウンセリングをとおして後者のようなさまざまな問題を抱えた女性にもお会いしました。どちらの女性たちも母親との関係は複雑で、抑圧的な構造がありました。