父兄の訴えで訪れた「飛び込み授業」先 中学昇格のプレッシャーで壊れた「国立大付属小」の教室だった…

#2 荒れた教室で子どもはどう変わってしまうか (2/3) 1ページ目に戻る

1クラス分だけが中学昇格のプレッシャー

そもそも国立の教育大附属ですから、子どもたちには学力に関するプレッシャーがかかります。附属小学校から中学校に上がれるのは、このときで言えば3クラス中の1クラス分とのことでした。

6年生になると、主要4教科のテストが年4回あり、その合計で1クラス分の「昇格組」が決まるそうです。最初の1~2回目で点数が昇格ラインに達しなかった子は当然、逆転の難しさを察します。同時に親から「何をしてるんだ」「塾でもっと頑張れ」というプレッシャーもかかってくる。

そうなると言い方は悪いですが、テスト教科以外の音楽などの授業では暴れたり、歩き回ったりして授業が成立しなくなります。

そこではまるで1980年代のヤンキー漫画のように、大人からの「ちゃんと勉強しなさい」という圧力に子どもが反発しているという光景がくり広げられていました。子どもたちも、その年齢で「人生に疲れている」「壊れている」といった様子でした。

現代の子どもはさまざまなプレッシャーにさらされている<Photo by iStock>
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いじめに向かう「群れ」、一緒に成長する「集団」

もうひとつ、私がこの教室で飛び込み授業をやってみて思いあたった言葉があります。「群れと集団」というものです。菊池道場でよく学び合うテーマです。

雰囲気の悪い学級というのは、子どもたちが「群れて」いるだけです。ただ空気で動いているのです。

一方、「集団」は目的のある個人の集まりです。一人ひとりの個が確立している点が群れとの違いなのです。私は以前に両者の違いをこうまとめたことがあります。
  
・教室から図書館まで列を作って移動するとき。
 群れ ぺちゃくちゃと友達としゃべったあとでようやく並ぶ。
 集団 すっと列を作ることに協力できる。
  
・休み時間にトイレに行くとき。
 群れ べつに行きたくないのに、友達が行くからと一緒に行く。
 集団 行きたいときにはひとりでも行く。
  
私がこの「群れと集団」について強い関心を持ったのは、一橋大学でドイツ中世史を教えられていた阿部謹也先生の著書『「世間」とは何か』(講談社現代新書)を若き日に読んだことがきっかけです。この本は日本と西洋社会での「世間」と「社会」の構造の違いを説明しています。

同書を要約すると、阿部先生は明治期に翻訳された「社会」という言葉は、実態を伴わない「誤訳」に近いものだったのではないかと指摘されています。西欧における「社会(ソサエティ)」は、個々人が「絶対的な神」との関係の中で自己を確立した、強い「個人」が前提にあります。

しかし、日本にはその「絶対的な神」が存在せず、確固たる「個人」も生まれませんでした。代わりに日本人が生きる拠りどころとしたのが、人間関係の網の目である「世間」です。日本でいう「個人」は、この「世間」との関係の中でのみ、曖昧な存在としてかたち作られます。

こういった背景もあり、日本の教室でも子どもたちは周囲との距離を測り、「世間」から排除されないよう空気を読む傾向が強くなります。この力学が教室を支配したとき、そこは「社会」ではなく「群れ」になります。子どもたちは不安ゆえに自分を殺し、周囲と同じであろうとするのです。

日本と西洋、どちらにもよさはあると思います。日本的なよさは、強い主張や個人主義に走りすぎず、周囲を尊重できるところにあるでしょう。ただ、残念ながら空気感で雰囲気が決まる「世間」では、子どもたちが群れ、いじめなどにつながる危険性は高くなるでしょう。

私は、学級は西洋的な「集団」の側面も持つべきだと考えます。一人ひとりの個性が尊重されつつ、同じ学級目標、つまりは成長に向かう集団であるべきです。私はまた、菊池道場の教えでもこんなフレーズを伝えています。

「ひとりが美しい」

これは自分ひとりでも考えを言える個人であろう、またそれを受け入れられる集団であろうという意味で、この言葉は阿部先生の著書から着想を得ることができました。

いじめが全滅することはない
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