自閉症は隠さない! アメリカでの療育生活から見えてきた ネガティブを転換する子育て方とは⁉

GAKUが自閉症アーティストになるまで #1 パパ・佐藤典雅さんインタビュー

株式会社アイム代表:佐藤 典雅

自閉症アーティスト・GAKUさん。3歳で自閉症と診断されて療育を受けるため渡米。14歳で帰国し、16歳でアートと出会いました。神奈川県川崎市にあるアトリエにて。  撮影:葛西亜理沙
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原色のキャンバスの上で、こちらを向いたキュートな動物たち。見る人を心の底からワクワクさせる、自由な筆致の抽象画の数々。

こちらを描いたのは、金髪のアーティスト『GAKU(ガク)』こと、本名・佐藤楽音(さとうがくと)さんです。彼は今、国内外から大注目される気鋭のアーティストとしてその名を知られるようになりました。

GAKUさんは3歳のときに自閉症と診断され、療育を受けるために、4歳から14歳までをアメリカ・ロサンゼルスで過ごしました。このアメリカでの療育生活を決めたのがGAKUさんのお父さん、佐藤典雅(さとうのりまさ)さんです。

帰国後は、福祉事業に参入し、神奈川県川崎市でGAKUさんを始めとした発達障害児童たちのための放課後等デイサービスやグループホームを運営しています。

そこでがくとさんが生まれてから、自閉症アーティスト・GAKUになるまでの日々をお聞きしました。

1回目は、わが子が自閉症と診断されてからと、9年間のアメリカ療育生活で得た気づき、そしてパパの子育てのスタンスについてお話しいただきます。


(全3回の1回目)

自閉症は治る病気だと思っていた

佐藤家の長男として、2001年5月1日に誕生したGAKUさん(以下、がっちゃん)。

赤ちゃんのときは「置けば泣きわめく爆弾のよう」と話すのは、パパ・佐藤典雅さん(以下、典雅さん)。抱っこをされていないと癇癪を起こすので、常に誰かががっちゃんを抱っこしていたといいます。1歳を過ぎて歩けるようになると、今度はお散歩が大好きになりました。

典雅さん:がっちゃんは、散歩を始めたら1時間は余裕で歩き回るんです。ただ黙ってついて歩くだけでは退屈だったので、ミッキーマウスのコスチュームを着せて歩くことに。すると、道ゆく人から「あら〜、かわいい」なんて声をかけてもらえるし、がっちゃんも得意げで嬉しそう。何より、自分も楽しかったですね。

とはいえ、このころは「活発すぎる子ども、くらいの感覚だった」と言います。その後、がっちゃんは3歳児健診のときに、自閉症傾向ありと診断されました。

典雅さん:当時(2004年)の日本では、今よりも自閉症という言葉が一般的ではなく、もちろん僕たち夫婦も自閉症について何も知りませんでした。いろいろ調べると、どうやらアメリカのロサンゼルスなら「自閉症児の療育が進んでいるらしい」ということがわかり、さらにどのサイトにも、「自閉症は“早期療育が必要だ”」と書いてある。それならと、仕事を辞めて、家族でロサンゼルスへ急いで引っ越ししました。

アメリカでは、1987年に提唱された「応用行動分析学(Applied Behavior Analysis=ABA)」と呼ばれる療育が、自閉症児への標準治療として主流に。世界的にみても、アメリカの療育体制は手厚いと言われており、年に一度、Individual Educational Plan=IEP(個別教育計画)という、子どもに合わせた計画が立てられて、療育のプログラムが進められていきます。

幼少期のがっちゃんと典雅さん。家族でアメリカ移住中の1枚。  写真提供:佐藤典雅

4歳だったがっちゃんが、最初に受けたプログラムは、スピーチ・セラピーという名の言葉の訓練でした。

典雅さん:がっちゃんのために立てられたIEPの分厚い書類をみて、最初は「これで治るんだ」と期待をしていました。しかし、1年ほど続けて、いくつか言葉は出てきたものの、どうやらこれから先、彼がスラスラと話せるようにはならなさそうだ、ということがわかってきました。

「早期の療育」について、疑問を抱くようになったのもこのころですね。というのも、僕は、「自閉症は病気」だと思っていたんです。

だから、早いうちから適切な療育をすれば、治るんじゃないかと。でも、当時最先端と言われるアメリカの療育プログラムを受けて見えてきたのは「自閉症は、どこまで行っても自閉症」だということ。IEPで立てられた計画と目標は、親の期待を超えるものではなかったんです。

そこから典雅さんは、「それなら効果よりも、がっちゃんの楽しさを優先させてあげよう」と、気持ちが切り替わっていきました。

がっちゃんと典雅さん。川崎のアトリエにて。  画像提供:アイム
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