宝塚と子育て 元タカラジェンヌの「子どもに本物を見せ続ける教育」とは?

67期生のレジェンド・三ツ矢直生「40歳で生まれた長男が大学合格」芸能と子育ての両立

三ツ矢直生さんの最近の活動。  写真提供:三ツ矢直生さん
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宝塚音楽学校を首席入学、歌劇団67期生のレジェンド・三ツ矢直生(なお)さん。40歳で長男を出産し、芸能の道と子育ての両立に奮闘してきた。今春、志望大学に進んだ長男の子育てを振り返る。

三ツ矢直生さんは宝塚歌劇団のレジェンドの1人だ。中学卒業後、1979年宝塚音楽学校へ首席入学、歌劇団では真矢みき、黒木瞳らと同期の67期生だ。歌える男役スターとして絶大なる人気を博した。『ベルサイユのばら』ジェローデル役をもって退団後は大検(大学入学資格認定)を経て東京藝術大学音楽学部声楽科を卒業した。

2003年に長男が誕生。宝塚歌劇団や大学での講師や舞台に立つ仕事のオファーもあったため、長男を0歳から保育園に預けた。三ツ矢さんは中学を卒業と同時に一流の芸の道にまい進したため、教科書を開いて勉強した時間は他の人よりは少ない。その分、長男の成長、そして自分の成長のためにこだわり続けたことがあった。​​

城郭巡りをする三ツ矢さん親子。  写真提供:三ツ矢直生さん

「40歳で男の子を産みました。息子はかなり身体が弱かった。母として、責任と負い目も感じる事もありました」(三ツ矢)

毎年10月が来るのが怖かった。ハロウィンになる度に必ず大きな発作が起きた。

「小児喘息でした。度々パルスオキシメーターが88を切り、この子は、このまま生きていられるのだろうか、と毎年不安の中にいました」(三ツ矢)

母親として息子の体調にいつも不安を抱えながらも、仕事を離れずに自分の本分である歌手として舞台に上がり、講師の仕事に奔走する道を選んだ。なぜなら自分を待ってくれているたくさんのお客様、生徒がいたからだ。

「息子の病院から舞台や劇団の稽古に通うこともありましたので、幼い頃から子どもを預けた事は、良い事なのかどうか、自問自答の日々でした」(三ツ矢)

葛藤はいつも抱えながらも「自分が仕事で本物を目指すことで、息子にもきっと素晴らしい道が開けるんだ」と信じた。

桶狭間古戦場跡。  写真提供:三ツ矢直生さん

そんな中、今でも忘れられない出来事に遭遇する。羽田空港での事。歌劇団の講師として1週間ほど家を離れる仕事だった。母親と離れることが嫌で泣く息子に三ツ矢さんも思わず号泣するような日々が続いていた。

「飛行機の座席に座っても泣き続けていたら、隣の初老のご婦人に『どうなさったんですか?』と聞かれたので、『息子と涙の別れをしてきました』と言うと『子どもを泣かせてまでする仕事ですか?』と。 見ず知らずの人からのこの言葉。同じ飛行機でたまたま隣に座っただけの人ですが……。『あなたは、誰⁉︎ 神様なの?』と目がテンになりました(笑)」

ただ、言葉は一つの転機を生むことがある。三ツ矢さんにとっては覚悟を決めた瞬間でもあった。

「ここで開眼したわけではないですが、それならば命をかけて全身全霊で仕事をしてフルスロットルで子どもと向き合おうと思いました」(三ツ矢)

24時間が30時間くらいほしい、そんな頃だった。本当に時間がなかった。日々成長していく長男に一体私は何ができるのだろうか。

「私が実際に身体を使って芸を磨くこと、体得していく事で成長して来ました。長男にはゆっくり座学で教えたり、何かを伝えたりする時間もないので『本物を見て感じ、子ども自身の養分になる事にこだわろう』と。子どもは移り気ですが、その時その時に興味を持った事を全力で応援しようと思いました」(三ツ矢)

仕事をしながら子育てをすれば、必然的に子どもとのコミュニケーションが減る。そのために、三ツ矢さんがいつも心にとどめていたことがあった。

「一緒にいる時は一言でも多く話そうと、喋り続けていました。長男の言語中枢を刺激することによって、その時どんなことに関心を持っているか、どんな『本物』が今この子に必要なのかを私自身が感じ取り、長男自身もそれを言葉で表現できるようになってほしいと思ったんです」(三ツ矢)

長男が小学生の頃に城好きになったとき、親子で頻繁に城郭巡りをするようになった。いわば「親子ブラタモリ」だ。ほどなくして、長男はデジタル版のブロック遊び「マインクラフト」の腕も磨いた。

「大人の私でも、実際にその場所に行ってみないとわからない事ばかり。それを経験して初めて湧き出てくる情熱や意欲があると思うのです」(三ツ矢)

長男が製作したマインクラフトの真田丸の作品が、中学生の作品とは知られないままYahooニュースで取り上げられた事がきっかけとなり、中学2年のときには兵庫県尼崎市から「仕事」のオファーが届いた。

尼崎市からうず高く積まれる程の資料を貸り、「ここが兵糧庫、ここが船の出入り口、ここが階段」と平面の地図を立体に立ち上げ、その中を歩いて見て回る感覚になるバーチャルな空間を創りあげたものだ。尼崎城400年記念の映像を作り、再建された尼崎城内に期間限定で放映された。

親が「絶賛、応援する!」という気持ちで子どもに接していても、思い通りにはいかないのが子育てだ。反抗期ももちろんあった。中学3年からだった。救ってくれたのは自分よりも先に子育てに奮闘してきた宝塚の先輩、後輩に加え、書籍にも助けられた。

先輩方から明るく前向きな言葉をたくさんもらった。

「反抗期はね、心が旅に出ただけだから……私の場合、上の子は帰ってきたけど、下の子はそのままお嫁さんをもらっちゃったわ!(笑)」

「舌打ちとかするようになるの。もう、チッチ、チッチ。不良の雀みたいでしょ」

「みんなが通る道! 気にしないことよ。自分の責任と思ってはダメ」

小説家の原田マハさんの本に『子どもが自分の人生で1番やりたい事を実行している。親にとってはそれが最高に嬉しい事。最高の親孝行だ』というような一節があった。三ツ矢さんが振り返る。

「“愛は押し付けるもの”という育て方しかできなくて……。結果は、わからない。ただ彼が喜んでも喜ばなくとも、渡せるものは全て渡そう、と思ったんですよ」(三ツ矢)

沖縄グスク城壁  写真提供:三ツ矢直生さん

小学校受験はうまくいかなかったが、三ツ矢さんは息子の興味に全力で寄り添い、本物を見せることにこだわり続けた。物事を多角的に見られる様になった結果として、慶應中等部の合格に繋がったのではないか、と言う。

中学では、小学生時代から続いた城巡りに加えて、漫才、乗馬といった多種多様な大好きな物に出会い、そのことによって多くの友人と真剣に交流し、生涯の友を得ることにつながった。そしてこの春(22年3月)、第一志望の大学に入学が決まった。

「息子が楽しそうな顔をしている、それが何より幸せです。彼自身も頑張っていたから。新しい時代を生きていくのでしょうね」と、三ツ矢さん、これ以上ない笑顔をみせた。

現在も、三ツ矢さんは歌手として舞台に上がり宝塚歌劇団で講師を務める。100年以上続く伝統を守り、高めていく思いは生徒たちと同年代の長男の子育てと重なる部分が多かった。

「生徒には『あなた自身が素晴らしい』と言うことをいつも伝えています。私自身、歌を歌っています。『歌う事』で一番大切なことは、心と身体を全て使って偽りなく、お届けする事だと思っています。皆様の心を揺さぶるためには、嘘があってはいけない。結局、『本当』じゃないと伝わらないと思うのです」(三ツ矢)

この取材を受ける前、三ツ矢さんが長男へ「母の教育で良かったことは何?」という質問を投げかけると「本物を見せてくれた事」と即答したという。多くの言葉はなくても、しっかり三ッ矢さんの想いを受け止め心根に根付いている証だ。

子育てに正解はない。けれども、その時その時、全力で子どもに立ち向かう愛は伝わっているはずだ。

真田丸顕彰碑  写真提供:三ツ矢直生さん

三ツ矢直生:みつやなお
中学卒業後、1979年宝塚音楽学校へ首席入学。歌える男役スターとして絶大なる人気を博し、『ベルサイユのばら』ジェローデル役で退団。大検を経て32歳で東京藝術大学音楽学部声楽科に入学。ニューヨーク、シアトル、フランスなど全国で演奏会を展開。フランス功労月桂冠奨励勲章受章。現在は宝塚歌劇団、聖徳大学の音楽講師

三ツ矢直生さんの最近の活動。  写真提供:三ツ矢直生さん
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