【WEBげんき連載】わたしが子どもだったころ
「この人の親って、どんな人なんだろう」
「この人は、どんなふうに育ってきたんだろう」
今現在、活躍する著名人たちの、自身の幼少期~子ども時代の思い出や、子ども時代に印象に残っていること、そして、幼少期に「育児された側」として親へはどんな思いを持っていたのか、ひとかどの人物の親とは、いったいどんな存在なのか……。
そんな著名人の子ども時代や、親との関わり方、育ち方などを思い出とともにインタビューする連載です。
第6回は、1男2女の父親でもある料理研究家のコウケンテツさんです。
家族と地域の皆さんに見守られてスクスク育ちました
僕は兄姉とは年が離れていたので、両親は自由にのびのびと育ててくれました。母も仕事をしていたので、僕は家にひとりでいることも多かったのですが、その分いつも自由。近所の駄菓子屋のおばあちゃんのところとか、パン屋のおじさんのところに入り浸っていました。それでおばあちゃんとしりとりをしたり、代わりに店番をしたり。パン屋のおじちゃんがドーナツを揚げさせてくれたこともありました。今ではあり得ない状況ですが、まだまだ大らかな時代でしたね。
そんなふうに僕は、家族と地域の皆さんに見守られてスクスク素直に育ちました。両親は韓国出身で、僕は大阪生まれの在日韓国人。僕のまわりは日本の方も在日の方も多く暮らしていて、“共同体”みたいな感覚で受け入れてくれていたので、そこも含めてスクスク育てていただいた気がします。とはいっても、やはり違う文化の者同士。母には、自分たちのことを知ってもらうにはご飯を一緒に食べてもらうのが一番、という思いもあったみたいです。食事に誘うだけでなく、いつも11月ごろになると近所の人たちと一緒にキムチを漬けたりしていて。まさに、食の文化交流です。こういった環境が、僕が料理に興味を持つようになった一因なのは間違いないと思います。
小4のときの通知表はオールA
一方で、日本の学校の規則の厳しさには閉そく感を覚えていました。中学校に入った途端、毎日物差しで前髪の長さを測られるような日々になって、自由だった小学校時代と比べて、何かと悶々とした気持ちで過ごしていました。部活も、一応バスケ部に所属はしていたんですけど、1つのことだけやるのがつまらなかったので、気分でいろんな運動部に顔を出していたんです。もちろん、そんなことをしているのは僕だけでしたけど、多分、何か本気で打ち込めるものが欲しくて無意識に探していたんでしょうね。
人生を変えたテニスとの出会い
そこで両親に、高校には行かずテニスに専念すると伝えました。当然おおごとになって、毎日先生から親戚まで入り乱れて説得の嵐。押し問答を繰り返す日々でしたけど、2番目の兄だけが応援してくれて、こうアドバイスしてくれたんです。「中学で夢を見つけたのは素晴らしいことだ。でも、ただ『やりたい』と主張するだけじゃなく、相手が納得するように伝えないといけない」と。現実的で建設的な意見に納得して、そこから家族で話し合いを重ねて。最終的に、高校には行くけど神戸にあるテニスのジュニア強化クラブにも通う、テニスの夢を断念した場合は大学に行く、ということで何とか折り合いをつけました。
そこからの僕は、アメリカにテニス留学をしたいと思っていたので、お金を貯めようと毎日テニスとアルバイト三昧の生活を送っていました。4時から練習をして、6時からパン屋でアルバイトをして、その後はテニススクールでアルバイトをして、夜は居酒屋でまたバイトして。当時から食が好きで、食関係のアルバイトばかりしていたのは、今に通ずるものがあるんですけど。
今に通ずるといえば、テニスが強くなるための体作りとして、栄養学の本とか有名選手の食生活を綴った本とかをたくさん読んで、自分の食に取り入れてもいたんです。こうしてテニスの腕はさておき、料理の腕はどんどん上がっていったんですよね(笑)。