佐藤弘道「体操のお兄さんは興味本位で。大怪我をしても挫折とは思わなかった」

【WEBげんき連載】わたしが子どもだったころ #8佐藤弘道

ライター:山口 真央

【WEBげんき連載】わたしが子どもだったころ

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「あの人は、子どものころ、どんな子どもだったんだろう」
「この人の親って、どんな人なんだろう」
「この人は、どんなふうに育ってきたんだろう」

今現在、活躍する著名人たちの、自身の幼少期~子ども時代の思い出や、子ども時代に印象に残っていること、そして、幼少期に「育児された側」として親へはどんな思いを持っていたのか、ひとかどの人物の親とは、いったいどんな存在なのか……。

そんな著名人の子ども時代や、親との関わり方、育ち方などを思い出とともにインタビューする連載です。

第8回は、NHK Eテレ「おかあさんといっしょ」で12年間、体操のお兄さんとして活躍し、50歳を超えてもなお「ひろみちお兄さん」の愛称で親しまれている佐藤弘道さんです。

小学生のときに「日体大に入る」と決めた

撮影/岩田えり(以下同)
僕の性格を一言で言うと、負けず嫌い。幼稚園児のころから、体を動かすことになると1番にならなきゃ気がすまないタイプでした。そんな僕が体操をはじめたきっかけは、1976年のモントリオールオリンピックです。体操選手が宙をくるくると回っているのを見て、「仮面ライダーみたいでかっこいい」と感動。テレビを食い入るように見ていたら、選手名のあとに「日本体育大学」って書いてありました。「この大学に行けばあんなふうになれるんだ」と思い、次の日には「日体大に行く」と学校の先生に宣言。体操教室にも通いはじめました。もちろん小学生のうちは、オリンピックで見るような体操競技はやらせてもらえません。物足りない僕は、よく砂場でバク転をしていましたね(笑)。

両親とも、運動神経はいいほうだったと思います。母は学生時代にソフトボールをしていたので、キャッチボールは母の担当。父もいろんなスポーツが得意で、スキーとか水泳とか、大体のことは一緒に遊んで教えてもらいました。もともと小学校の教員をやっていたこともあって、教えるのが上手で。僕の記憶にあるころは、もう祖父が新宿で経営していた焼鳥屋のあとを継いでいましたけど。僕も幼いときは、よく焼鳥屋で過ごしていたことを覚えています。

両親が忙しいので、弟や友だちと毎晩銭湯に行ってました。常連さんともすぐに仲良くなって、石鹼を彫って遊んでいたら3時間たっていた、なんてこともよくあって。子どもが銭湯から帰ってこなかったら心配しそうなものだけど、母は全然迎えにきませんでした。僕も縛られるのが嫌いな性格だったんで、自由に遊ばせてもらえるのがうれしかった。しつけには厳しい母だったけど、僕の性格がわかっていて放任してくれていたのかもしれません。

頭蓋骨にネジを入れる怪我も挫折とは感じない

中学にも本格的な体操部はなくて、最初はソフトテニス部に入っていました。そのうち運動ができることが学校中に知れ渡って、いろいろな部からピンチヒッターとして呼ばれるようになって。しかも大会に出れば何かしら賞をとって帰ってくるので、最終的には陸上部と水泳部も掛け持ちしていました。高校入学を機に、念願の体操競技部に入部。それまで手をつけてこなかった勉強も、日体大の推薦枠を勝ち取るためにがんばりました。

高校1年生のとき、宙返り中に頭から床に落ちて、頸椎を損傷する大怪我をしました。頭蓋骨にネジを埋め、頸椎をワイヤーで固定する手術をして、学校には3ヵ月ぐらい通えなかった。でも僕は、このときのことを不思議と「挫折」とは感じていないんですよね。というのも僕の隣のベッドに、バイクで転んだお兄さんが入院していました。彼は半身不随になるくらい大変な状況だったのに、とっても優しくしてくれて。彼の怪我に比べたら、自分の怪我は大したことないなと思ったんです。

それにタイミングよく、同じ病院に入院していた日体大の学生さんから、筋トレに誘われて。早く体を動かしたかった僕は、そこから毎日、筋トレに励みました。たぶん、人生で一番筋トレしたんじゃないかと思います(笑)。その3ヵ月間はほとんど学校に通えなかったけれど、先生がフォローしてくれて、なんとか無事に進級することもできたので、挫折とは思わなかったですね。
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