
87年もの時を超えて今ふたたび友達に、1枚のポストカードから語られたもう一つの物語
『おとうさんのポストカード』監修者・中村真人 (2/3) 1ページ目に戻る
2025.11.11
ライター:中村 真人
「父と母、そして私は1939年1月12日にベルリンを離れました。アメリカへのビザは2月中旬から有効だったので、私たちはまずイギリスに渡りました。
父の法律事務所のパートナーが、当時ベルリンの首席ラビ(ユダヤ教の宗教指導者)だったレオ・ベック氏の娘と結婚しており、すでにロンドンにいました。彼らを頼って数週間一緒に過ごした後、2月4日に船でオランダに戻りました。そして、ロッテルダムからの旅客船でニューヨークに渡ったのです」
ヴェルナーさんが87年前の日付を正確に記憶しているのに驚く。そしてこの「2月4日」という日付が、私にとって大きな手がかりになった。
ロッテルダムとニューヨークを結ぶ伝統ある「オランダ・アメリカ航路」の船は、イギリスのプリマスに停泊してから、大西洋の長い航路に出ていたことを知った。つまり、2月5日にプリマスの消印が押されたポストカードは、その際にヴェルナーさんからヘンリーさんのベルリンの住所へ送られたことにほぼ間違いない。
簡単ではなかった、アメリカへの移住
人の記憶とは不思議なもので、ヴェルナーさんは、そしてヘンリーさんも、互いのことは何も覚えていないという。だが、ヴェルナーさんの話を聞いているうちに、2人の接点が浮かび上がってきた。
一家が住んでいた繁華街クーダムにほぼ面したウーラント通り32番地は、ヘンリーさん一家の住まいだったカント通り30番地まで徒歩10分ほどの距離だ。そして、ヴェルナーさんの父は、ヘンリーさんの父マックスと同じく弁護士だった。2人の少年は父親の仕事の関係でつながっていたのかもしれないし、同じ幼稚園に通っていた可能性もある。本当のところは今となってはわからない。
ヴェルナーさんによると、当時ユダヤ人の子どもは一般の幼稚園から追い出され、ユダヤ人だけの幼稚園に通うよう余儀なくされていた。そもそも、ザリンガー一家はなぜアメリカに移住できたのか。当時、そのためにはたいへん高いハードルが伴った。
「ビザを取得するだけでは不十分で、『私たちを支援する必要がある』ということを示すアメリカ市民による宣誓供述書が必要でした。アメリカの映画プロデューサーに、カール・レムリ(1867~1939)という人がいます。ドイツのラウプハイム出身のユダヤ人で、19世紀末にアメリカに移住し、かのユニバーサル映画を創設した人です。
1936年から39年にかけて、レムリ氏は故郷ラウプハイムとつながりがあるユダヤ人を助けようと、彼らの身元保証人になってくれたのです。私の母はフライブルク出身の5人姉妹ですが、たまたま姉の婚約者がラウプハイム出身でした。
レムリ氏はあまりに頻繁に身元保証人になるため、アメリカ国務省から注意を受けていたそうですが、最終的に私たち3人のアメリカ行きを支援してくれたのです。そうでなければ、生き延びることはできなかったでしょう」



































