谷川俊太郎さんに「話せなかった」エピソード 担当編集者が明かす詩集『たったいま』の思い出

谷川俊太郎さんのこと

私にとっての谷川俊太郎さんは、絵本作家・佐野洋子さんの夫だった人、です。

私は佐野さんの最晩年の担当編集でした。

そういう意味で興味があった、ずっと気になっていた人でした。

でも、なんのきっかけもなく、遠い存在でした。

谷川さんの作品を担当した1冊目は、絵本『せんそうしない』(2015年刊)です。

絵本編集者時代、「体験者に戦争の原稿を書いてもらう」というのは私の内なるテーマでした。

戦後70周年である2015年に、「どうしても何か出したい」と、前年くらいから活動を始めたと思います。

▲『せんそうしない』谷川俊太郎/文、えがしらみちこ/絵(講談社)
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FAXで送られてきた原稿

当初に考えていたのはアンソロジー(複数の著者の作品を集めた本)で、その依頼を谷川さんにもしました。谷川さんの著書を買い集めながら、手紙を書いたと思います。

きっとお返事がこなかったからだと思うのですが、『おやすみ神たち』(谷川俊太郎/詩、川島小鳥/写真)の出版イベントを開催直前に見つけて、行ってみようと思い立ちました。

▲『おやすみ神たち』谷川俊太郎/詩、川島小鳥/写真(ナナロク社)

窓口のナナロク社さんに連絡したときには、予約はもういっぱいで、締め切られていました。

でもとにかく行っちゃおう、と思って行ってみると、ひとりキャンセルが出たのでどうぞ、と言われ運よく入れたのです。

川島小鳥さんは2011年にナナロク社から写真集『未来ちゃん』を出していて、注目されていました。

この本の装丁は祖父江慎さんですが、私は祖父江さんがこれを作っているころ、別件でよく事務所に行っていました。

前の打ち合わせが『未来ちゃん』チームで、色校がテーブルいっぱいに広げられているのに遭遇したことがあり、祖父江さんが嬉々として仕事を進めていたのは知っていました。

なので、その川島さんにも会えて、超ラッキーでした。

イベントが終わって谷川さんのところへ行き、名刺を出して「お手紙を差し上げました」と挨拶しました。

「すぐには無理だから、ちょっと待ってね」みたいなことを言われ、心の中でガッツポーズをしました。

編集部に電話がかかってきたのは、それから間もなくのことです。

「アンソロジーじゃないのがいいんだけどね」

ひゃっほー! です。

さほど期間を待たず、『せんそうしない』の原稿がFAXでガッガッガッと送られてきました……。

歌えなかった「地球へのバラード」

『せんそうしない』を出した2015年、私は絵本の編集部から青い鳥文庫に異動になりました。

青い鳥文庫から谷川さんの詩集を出す、という野望をいつからか抱くようになり、でもどうしたらいいかわからず、そのプランは長い間私の中に眠ったままでした。

どうしよう、どうしようと、ぐるぐる考えていて、あるとき谷川さんが、音楽を好きなことに思い当たりました。

谷川さんの詩は、多く合唱曲になっています。ひとつの作品を複数のアーティストが作曲しているものもあります。

▲谷川さんの詩は合唱曲としても親しまれてきた〔写真はイメージです〕(アフロ)

私は、歌えなかった「地球へのバラード」を思い出しました。

私は高校時代はガチ合唱部で、以降も断続的にいろいろな機会に歌ってきました。

「地球へのバラード」は、谷川さんの5編の詩に三善晃氏が作曲した合唱組曲です。当時所属していた合唱団の、はじめての定期演奏会の演目にこの曲が入っていて、それはそれはたくさん練習していたのでした。

しかし、演奏会当日は、講談社の入社試験だったのです。

書類選考(今でいうエントリーシート)に通り、筆記試験日程を見て、私はほんとうに落胆したのですが、それを経て今まで編集者として働いてきたわけです。

ああ、「地球へのバラード」歌えなかったなあ(それ以降、今まで歌うチャンスはない)。

次の瞬間、「そうだ、楽譜を買ってこよう!」

▲編集作業を進めていた当時に、買い集めた楽譜

そこから作業はバリバリ進みました。歌になっている作品を中心に、自分が好きな詩をどんどん選びました。

軸を「音楽」そして「歌」と決めたので、最初の作品は「そのひとがうたうとき」にしました。

人間が発する普遍的なメッセージが、時間も場所も越えて未来まで届くことの尊さを、歌という形になぞらえて描いた作品です。

今でもページを開くと、涙が出そうになります。

「たったいま死ぬかもしれない」

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