
コミュニケーションの授業で人気の教師が、「お礼」「お詫び」「お願い」を子どもに浸透させる秘訣を伝授
#3 家庭でもできる菊池式実践法
2026.04.12
第3回目では、著書『足型をはめられた子どもたち』より、「家庭でもできる菊池式実践法」をお伝えします。家庭と学校で協力して状況をよくしていきませんか? という呼びかけでもあります。
コミュニケーションの授業で日頃私がおこなっているもので、「ご家庭でもこういうふうに考え、実践できるところはしてくださると、子どもの成長が促せるのでは」というものです。これがいずれは「日本の公立小学校もよりよくするだろう」と私が考えていることです。
私が保護者のみなさんにコミュニケーションのとり方の前に、まずお伝えしたいのは、「子どもの眺め方」です。視点、観点とでも言いましょうか。一見抽象的なようですが「眺める」ことにより客観的に次の手が打てます。その後、子どもが考える力をつけるためのコミュニケーションのとり方をお知らせします。
入り込みすぎて毒親になっていないか
「子どもを育てることは決して簡単ではない。手間暇がかかるもの」
当たり前ですが、これは家庭でも学校でも同じことですよね。我慢が必要です。手間暇がかかる。これが大前提になります。また、私は菊池道場でこんなことを日々口にしています。
「子どもを育てるということは、スピードが求められる現代社会の中で、唯一それが入り込めない領域」
手間暇がかかるゆえ、こういった事態に陥ることもあるのではないでしょうか。
「近づこうとしすぎると、ウザがられる」
これも難しいですよね。子どもの懐に入っていこうとばかりすると、反発されるのです。コミュニケーションをとりたい。しかしこちらから望むかたちになるとは限りません。
私は教員時代、学年の別のクラスの男性の先生が、3学期の最後の教室で子どもたちにフォークギターでお別れの歌を歌っていたのに、子どもたちがしらけ切っていた場面を見たことがあります。情熱的ないい先生のはずなのに、一年間の学級運営がうまくはいかなかったのです。
また子どもに対する「世話の焼きすぎ」は、学校でも家庭でもマイナスに作用するでしょう。視線が強く向きすぎると、逆に子どもが安心できなくなるのです。さらに、なんでもかんでも大人がやってあげると、社会性や自立心が育っていきません。子どもを眺められずに、入り込もうとばかりする結果、出てくる事象のひとつが「毒親」と呼ばれる存在でしょう。
この点にうまく対処するために、親が子を「眺める」という方法を提案します。「見る」「注視する」ではなく「眺める」。
この言葉に私は強い思い入れがあります。2012年にNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」に出演させていただいた際、私が朝のホームルーム前の教室を廊下側の窓からじっと見ていたシーンに対して、ディレクターの方がこんなナレーションを入れてくれました。
「菊池は朝、職員室に行かず、教室のある廊下から子どもたちの様子を眺めている」
なるほどな、と感心したものです。「見つめた」だと強い関心が相手にも伝わる。「見た」だと無関心な印象も。眺める、というのはほどよい距離感から見守るという意味です。





























