教科外活動だった道徳の授業が、数年前から教科化されていたことをご存知でしょうか。小学校では2018年度から、中学校では2019年度から、道徳を「特別の教科」と設定して授業をおこなっています。
教科化される20年以上前から道徳の授業に疑問を持ち、研究を続けてきたのが、筑波大附属小学校で教鞭を執る加藤宣行(かとう・のぶゆき)先生です。
加藤先生は、東京学芸大学からスタントマンの養成所へと進んだ異色の経歴を持つ先生。現在は道徳の専任教師として、生徒たちから「かとちゃん」の愛称で親しまれています。
「元スタントマン・かとちゃん先生に聞く道徳のいま 前編」では、道徳の授業が教科化された理由や、加藤先生が長年の道徳の授業で変えたかったこと、加藤先生が独自に編み出した授業のやり方について伺いました。
答えを「言わされている」授業を変えたかった
──道徳の授業が教科化した経緯を教えてください。
加藤宣行先生(以下、加藤先生):教科化される前の道徳は、先生方が「あまり必要がない」と捉えていたのだと思います。理由の一つは、道徳の授業を特設しなくても、日常生活のなかで道徳教育ができると考えられていたこと。もう一つは、どういった授業をしたらいいか、やり方がわからなかったことです。
一方でいじめの件数は増え続け、2011年には滋賀県大津市でいじめ自殺事件が起きました。またSNSを利用する子どもが増え、情報モラルの指導というニーズも出てきた。そういった理由から、子どもが深く考え、議論することを目標にした道徳の授業が、本格的に必要だという流れになっていきました。
──いままでの道徳は、どういったものだったのでしょうか。
加藤先生:道徳の授業は、パターンにはまりやすい傾向にあります。よくあるのは、あるシーンを取り上げて、登場人物の心情を想像し、自分に当てはめるやり方です。たとえば、こんな授業があげられます。
誰かが誰かに親切にしているシーンを子どもに提示し「親切にされた人は、どう思ったでしょう」「あなたは今まで、誰かに親切にされたとき、どう思いましたか」などと生徒に問います。生徒は「うれしかった」「もっとみんなに、やさしくしたいと思います」と答え、授業は終わり。
誰でも簡単にできる授業ではありますが、最初から生徒にはこたえがわかっていて、小学校の高学年にもなると「言わされている」と、感じる授業になってしまうこともあるかもしれません。
加藤先生:筑波大学附属小学校で働く以前に、公立の小学校で15年間教えていましたが、そのときから道徳の授業に疑問がありました。一人一人違う子どものはずなのに、同じ答えに導かれてしまうのはおかしいのではないか。
教師になる前、スタントマンや役者として舞台にでていた経験もあったせいか、子どもたちに寄り添った、ライブ感のある授業ができないかと思案していたんです。
現場の空気を変えたいと思って、道徳の専任教師として働ける、筑波大学附属小学校に転職。子どもたちに授業をしながら、本腰を入れて道徳の授業のやり方を探求し、5年ほどで自分のスタイルを確立しました。
現在は、講演会や飛び込みで他校の授業をおこないながら、「深く考え議論する」道徳授業のやり方を伝えています。
道徳心の「過程」を生徒に体験してもらう
──加藤先生の道徳の授業を、具体的に教えていただけますか。
加藤先生:私の授業は45分一本勝負。内容は子どもの意見によって変わるので、毎回同じではありません。わかりきっていることを言わせたり、書かせたりするだけでは、問題解決にはならない。子どもが自分ごととして考え、話し合う時間を大切にしています。
では実際に、過去にあった授業の様子を再現してみましょう。まず、この教材を読んでみてください。
あるお休みの日、わたしはおかあさんといっしょにお出かけをしました。おかあさんに手をひかれてバスにのると、バスの中は人でいっぱい。
(中略)そのとき、キキキキィー。とつぜんバスがとまりました。(中略)そのひょうしに、となりのおばさんの足をふんでしまったのです。
「あっ!」わたしはすぐに足をひっこめました。そして、そうっと、おばさんのかおをのぞきました。なんだかとてもこわそうです。(中略)(このままだまっておこうかな。)
(中略)そのとき、わたしは、おかあさんがいつも、「わざとじゃなくても、人にめいわくをかけてしまったら、ちゃんとあやまりなさい。」といっていたことをおもいだしました。
わたしはいろいろかんがえながら、もういちどおばさんを見ました。あいかわらず、こわそうです。でも……。
「ごめんなさい。」わたしはおもいきっていいました。ちょっとだけあたまも下げました。むねはドキドキ……。(おこられるかな。)
ところが、どうでしょう。おばさんのかおは、みるみるえがおになったのです。(中略)わたしはむねの中が、まるでおせんたくされたみたいに、スーッとしました。
(『小さな できごと』小学どうとく ゆたかなこころ 2年(光文書院)より)
加藤先生:私はまず、出来事の内容と、主人公の女の子がいろいろ考えて謝ったこと黒板に図式化し、生徒たちにどう思ったか自由に発言させました。すると一人の生徒が「もっと早くごめんなさいって言えたらよかったのに」と言ったんです。
そこで私は黒板に「すぐに謝れる」という選択肢を書き足して「すぐに謝れるのと、いろいろ考えてから謝るのでは、どちらがより礼儀正しいでしょう」と生徒たちに尋ねました。
すると、ある子が「すぐに謝るのは、お母さんに言われたから謝っているだけじゃない?」と言いました。すると別の子が「悩んでから謝ったほうが、心を込めて謝ることができるんじゃないか」と発言。
「気持ちを込めるのは大事だね」「考えてから謝るほうが好きだな」と、生徒たちは次々に意見を口にし、考えを膨らませていきました。
私は生徒たちが発言したことを、次々に黒板に書き込んでいって「こっちも素敵だけど、こっちのこういうところもいいね」とそれぞれの意見を受け止めながら、生徒たちが考えを深める手助けをしていきました。
加藤先生:最終的に、自分にも謝りたくない気持ちはあるけれど、それを乗り越えたい気持ちもある。気持ちを乗り越えて謝れた女の子はすごいな、自分にもできるかな、などと、子どもたちは自分ごととして考えることができました。
このようにして、道徳的な行動に直結させるのではなく、結論にたどり着くまでの過程を体験させてあげることで「ごめんなさい」と謝ることの本質を伝えることができるのです。
「享受能力」を高める 道徳授業の本当の意義
加藤先生:この授業を受けた、私の担任する小学校2年生の子は「成長できるチャンスは一度だけではなく、失敗しても変えたいという強い気持ちさえあれば、どんな自分にも変身できると思いました」という感想を書いてくれて、うれしかったですね。
いままで道徳の授業が「つまらない」と捉えられてきたのは、道徳の内容項目を教え込むだけの授業になってしまっていたから。しかし、自分ごととして取り組み、意見を交わすことで、子どもたちは物事をより豊かに受け取る力、「享受能力」を高めることができるはずです。
周囲の出来事に対して、表面的でなく「より深い捉え方」ができるようになると、物事に対する姿勢が変わり、子ども自身の人生も豊かになります。
そんな、「前よりちょっといい自分」に出会わせてくれるような授業を、私はいつも目指しています。
【筑波大附属小学校で教鞭を執る加藤宣行先生へのインタビューは前後編。前編では「道徳」が教科化された背景と、道徳の授業を受けることで子どもがどのような学びを得られるかを伺いました。後編では「道徳の評価・成績について」と、「道徳」を通した子どもとの関わりについて伺います】
加藤宣行(かとう・のぶゆき)1960年東京都生まれ。筑波大学附属小学校教諭、筑波大学・淑徳大学講師。東京学芸大学卒業後、スタントマンやスポーツインストラクターを経て、神奈川県公立小学校教諭に。15年勤務ののち、筑波大学附属小学校で道徳の専任教師になる。小学校・大学で講師をする傍ら道徳の研究を重ね、独自の授業を開発。日本道徳基礎教育学会会長、KTO道徳授業研究会代表。著書に『道徳授業を変えたい!と思ったときに、まず読む本』『加藤宣行の道徳授業 実況中継』など。
撮影/市谷 明美
山口 真央
幼児雑誌「げんき」「NHKのおかあさんといっしょ」「おともだち」「たのしい幼稚園」「テレビマガジン」の編集者兼ライター。2018年生まれの男子を育てる母。趣味はドラマとお笑いを観ること。
幼児雑誌「げんき」「NHKのおかあさんといっしょ」「おともだち」「たのしい幼稚園」「テレビマガジン」の編集者兼ライター。2018年生まれの男子を育てる母。趣味はドラマとお笑いを観ること。