ウルトラマンの実力を確認
その特撮パートの制作は、東宝映像に委託されることとなった。撮影には、東宝スタジオの№3と№5ステージが使用されており、東京美術センターで撮影されていた、それまでの「ウルトラマンシリーズ」以上の広大なセット設計が可能となった。
そして、より迫力ある特撮シーンが実現され、莫大な制作費が投入された大作の風格をもって、世に問われている。
世界観の転換
しかし、エピソードが進むにつれ、3人の思想の違いによる文芸的な齟齬が拡大していくことになってしまう。その結果、およそ1クールで当初のローテーションは崩れ、神性すら感じるヒーローの物語は、完全なる善と絶対悪の対決という構図から、新規シナリオライターの参入もあって、正義と邪悪の対立といった概念へと変化していく。
番組イメージの貫徹という点で不満を感じる向きはあったが、この変化は『A』というシリーズのテイストを「SFファンタジー」から「SFアクション」へと動かしたわけで、シリーズ後半の活劇強化とも相まって、ウルトラマンAを「強い」ヒーローへと転じさせたという解釈も成り立つ。
ゆらぐ思惑
『ウルトラマンタロウ超百科』までは、その出版がスムーズに決まった経緯があった。
しかし、当時の児童向け書籍としては比較的高価な企画であることも手伝い、『ウルトラマンレオ超百科』の決定には若干の説得が必要となり、さらに「A」の決定には「レオ」の手ごたえを見ようという流れになったのである。
そのため、『ウルトラマンA超百科』は「テレビマガジンデラックス16」となり、『ウルトラマンG(グレート)超百科』や東映コンテンツの『全仮面ライダー超百科』『鳥人戦隊ジェットマン超百科』などに続いての発行となる。
イベントとの不可分
そんな超百科の確立、及びシリーズ化が成された時期は、「ウルトラマンシリーズ」そのものの人気の普遍化も進展する状況にあったといえる。
この時期、これらの関係に歩調を合わせたかのように展開され始めた第3のファクターに、大規模なイベント事業がある。
それは、東京・池袋で開催されて恒例になりつつあった『ウルトラマンフェスティバル』のことで、TBS事業部が円谷プロダクションと共同で1989年の夏休みに開始。ウルトラマンがイベントやステージショーと相性がよすぎることを証明して今に至っている。
1970年代は、東京やその近郊に存在していたいくつもの遊園地は活況を呈しており、ウルトラヒーローに限らず、円谷ヒーローが登場する催事は大人気だった。
そのような状況のなか、世田谷区にあった二子玉川園は1971年に「新怪獣大決戦」を開催。1972年以降は森永製菓の協賛により常設されたエンゼルステージにて円谷キャラクターのショーを展開して人気を博し、夏休みには円谷怪獣たちが園内を闊歩するイベントまでもが行われていたのである。
このように「ウルトラマン」の人気が,イベント事業を盛り上げるのと同時にイベント事業が「ウルトラマン」人気を下支えする相関関係は明らかであった。
『ウルトラマンA超百科』も初期の「ウルトラマンフェスティバル」の販売スペースにて売れ行きが悪くなかったことからも、番組と本、イベント事業は恐ろしいまでに一蓮托生なニュアンスのある不可分な関係だと言えるのではないだろうか。
テレビマガジン編集部
日本初の児童向けテレビ情報誌。1971年11月創刊で、仮面ライダーとともに誕生しました。 記事情報と付録の詳細は、YouTubeの『テレビマガジン 公式動画チャンネル』で配信中。講談社発行の幼年・児童・少年・少女向け雑誌の中では、『なかよし』『たのしい幼稚園』『週刊少年マガジン』『別冊フレンド』に次いで歴史が長い雑誌です。 【SNS】 X(旧Twitter):@tele_maga Instagram:@tele_maga
日本初の児童向けテレビ情報誌。1971年11月創刊で、仮面ライダーとともに誕生しました。 記事情報と付録の詳細は、YouTubeの『テレビマガジン 公式動画チャンネル』で配信中。講談社発行の幼年・児童・少年・少女向け雑誌の中では、『なかよし』『たのしい幼稚園』『週刊少年マガジン』『別冊フレンド』に次いで歴史が長い雑誌です。 【SNS】 X(旧Twitter):@tele_maga Instagram:@tele_maga