なぜ売れた? 放送から20年後に出版の『ウルトラマンA超百科』

『復刻版テレビマガジンデラックス 決定版 ウルトラマンA超百科』が30年超の時をへて再刊!

テレビマガジン編集部

▲怪獣よりも強い「超獣」と戦ったウルトラマンA(エース)  ©円谷プロ
『テレビマガジン デラックス 決定版 ウルトラマンA超百科』が復刻。この超百科を編集し、復刻版の監修も手掛けたベテラン編集者Ⅰ氏が、約30年前・刊行当時の超秘話を明かします。

ウルトラマンの実力を確認

1972年の春におけるTBSの目玉新番組であった『ウルトラマンA』は、1971年に放送されて「第2次怪獣ブーム」の原動力になった『帰ってきたウルトラマン』の勢いを継続。さらに強化すべく、企画が十分に練られ、各種の強化策が施された「第2期ウルトラシリーズ」の決定打とされた作品である。

その特撮パートの制作は、東宝映像に委託されることとなった。撮影には、東宝スタジオの№3と№5ステージが使用されており、東京美術センターで撮影されていた、それまでの「ウルトラマンシリーズ」以上の広大なセット設計が可能となった。

そして、より迫力ある特撮シーンが実現され、莫大な制作費が投入された大作の風格をもって、世に問われている。
▲火炎を使用した迫力の撮影シーン  ©円谷プロ

世界観の転換

その企画内容と脚本は、3人の脚本家、市川森一、上原正三、田口成光の競作という体制で進められた。三者三様の個性をぶつけることで、クオリティのアップが狙われていた。

しかし、エピソードが進むにつれ、3人の思想の違いによる文芸的な齟齬が拡大していくことになってしまう。その結果、およそ1クールで当初のローテーションは崩れ、神性すら感じるヒーローの物語は、完全なる善と絶対悪の対決という構図から、新規シナリオライターの参入もあって、正義と邪悪の対立といった概念へと変化していく。

番組イメージの貫徹という点で不満を感じる向きはあったが、この変化は『A』というシリーズのテイストを「SFファンタジー」から「SFアクション」へと動かしたわけで、シリーズ後半の活劇強化とも相まって、ウルトラマンAを「強い」ヒーローへと転じさせたという解釈も成り立つ。
▲誌面の左下には、南夕子最後の戦いが記されてあり、物語の転換をうかがい知ることができる。  ©円谷プロ

ゆらぐ思惑

以上のような経緯もあり、超百科シリーズの初期ラインナップを決定するにあたり、当時のテレビマガジン編集長は、ウルトラマンAのキャラクター性に不安定さを感じていたことは事実である。

『ウルトラマンタロウ超百科』までは、その出版がスムーズに決まった経緯があった。

しかし、当時の児童向け書籍としては比較的高価な企画であることも手伝い、『ウルトラマンレオ超百科』の決定には若干の説得が必要となり、さらに「A」の決定には「レオ」の手ごたえを見ようという流れになったのである。

そのため、『ウルトラマンA超百科』は「テレビマガジンデラックス16」となり、『ウルトラマンG(グレート)超百科』や東映コンテンツの『全仮面ライダー超百科』『鳥人戦隊ジェットマン超百科』などに続いての発行となる。
▲ウルトラマンG(グレート)の雄姿。『超百科』は、ウルトラマンAに先駆けて刊行  ©円谷プロ PHOTO/講談社

イベントとの不可分

『ウルトラマンA超百科』の発売は1991年11月25日で、1992年には『ウルトラ怪獣図解超百科』や『ウルトラ戦士必殺わざ超百科①~②』『ウルトラマン80超百科』といったラインナップが続くことから、『ウルトラマンA超百科』の成績は、編集部としても満足のいくものだったようだ。

そんな超百科の確立、及びシリーズ化が成された時期は、「ウルトラマンシリーズ」そのものの人気の普遍化も進展する状況にあったといえる。

この時期、これらの関係に歩調を合わせたかのように展開され始めた第3のファクターに、大規模なイベント事業がある。

それは、東京・池袋で開催されて恒例になりつつあった『ウルトラマンフェスティバル』のことで、TBS事業部が円谷プロダクションと共同で1989年の夏休みに開始。ウルトラマンがイベントやステージショーと相性がよすぎることを証明して今に至っている。
▲夏の恒例イベントなった「ウルトラマンフェスティバル」。こちらは2011年のキービジュアル  ©円谷プロ  
そもそも「ウルトラマン」のイベントステージは、『ウルトラQ』放送当時の怪獣展示・行進的な企画から始まっており、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』時のサイン会やミニステージから進化を始め、『ウルトラマンA』が放送されていた1972年には、ステージショーは円谷プロにとっても重要な事業となっていたのである。

1970年代は、東京やその近郊に存在していたいくつもの遊園地は活況を呈しており、ウルトラヒーローに限らず、円谷ヒーローが登場する催事は大人気だった。

そのような状況のなか、世田谷区にあった二子玉川園は1971年に「新怪獣大決戦」を開催。1972年以降は森永製菓の協賛により常設されたエンゼルステージにて円谷キャラクターのショーを展開して人気を博し、夏休みには円谷怪獣たちが園内を闊歩するイベントまでもが行われていたのである。

このように「ウルトラマン」の人気が,イベント事業を盛り上げるのと同時にイベント事業が「ウルトラマン」人気を下支えする相関関係は明らかであった。

『ウルトラマンA超百科』も初期の「ウルトラマンフェスティバル」の販売スペースにて売れ行きが悪くなかったことからも、番組と本、イベント事業は恐ろしいまでに一蓮托生なニュアンスのある不可分な関係だと言えるのではないだろうか。
▲イベントの黎明期、1966年に行われた『ウルトラQ大行進』  ©円谷プロ
『復刻版テレビマガジンデラックス 決定版 ウルトラマンA超百科』定価:1650円(税込み)
©円谷プロ

テレビマガジンデラックス 珠玉の復刻版をAmazonでチェック

テレビマガジン編集部

日本初の児童向けテレビ情報誌。1971年11月創刊で、仮面ライダーとともに誕生しました。 SNS:テレビマガジンX(旧Twitter) @tele_maga  SNS:テレビマガジンLINE@ @tvmg  記事情報と付録の詳細は、YouTubeの『ボンボンアカデミー』で配信中。講談社発行の幼年・児童・少年・少女向け雑誌の中では、『なかよし』『たのしい幼稚園』『週刊少年マガジン』『別冊フレンド』に次いで歴史が長い雑誌です。

日本初の児童向けテレビ情報誌。1971年11月創刊で、仮面ライダーとともに誕生しました。 SNS:テレビマガジンX(旧Twitter) @tele_maga  SNS:テレビマガジンLINE@ @tvmg  記事情報と付録の詳細は、YouTubeの『ボンボンアカデミー』で配信中。講談社発行の幼年・児童・少年・少女向け雑誌の中では、『なかよし』『たのしい幼稚園』『週刊少年マガジン』『別冊フレンド』に次いで歴史が長い雑誌です。