いじめ、母の孤立、ヤングケアラー
鴻巣さんがバウンダリーの大切さを訴えるのは、ご自身の経験が背景にあると話します。
「母は外国籍のため、私は外国にルーツがあります。私の子ども時代、今から40年近く前の日本では、外国にルーツのある子が教室にいるのは非常に珍しかった。私たち兄弟しかいない環境で、いじめを受けたんですね」
「その当時、転校生だったことも影響してたと思います。さらに、母は日本語が上手に話せず、地域のコミュニティでうまく立ち回れずに孤立していました。その状況から母は精神的に不安定な状態にあり、私はそんな母をケアする役目もしていました」
家では母親ができるだけご機嫌でいられるよう、親の望む役割を果たし続けたという鴻巣さん。
「母の愚痴や不満を聞いたり、母が機嫌よくいるために立ち回ることが、家でのミッションでした。学校に行けば行ったで、今度はいじめを受けていて。家も学校もいづらい状況が続いていましたね」
時が経つにつれ状況は変化し、幼少期の辛い体験は終わりを迎えます。しかしその後も鴻巣さんは「生きづらい」という気持ちを抱えていたそうです。
周りの期待に応えようとしすぎていた
「例えば高校や大学、大学院へと進路を進めましたが、自分で進路を決めるはずなのに、自分がどうしたいのかがわからなかったのです。友人に『麻里香はどうしたいの?』と聞かれても、私の中で浮かんでこない」
「行きたい大学、なりたい仕事。私がどうしたいのかの前に、母はどうして欲しいのか、父はどうして欲しいのか、先生はどうして欲しいのかという、他の人の願いが先に頭に浮かんできてしまう」
「当時の私は、いじめの体験やヤングケアラー的な状況におかれた自分について、意思や権利を侵害されているという事実に気づいておらず、あまりにもナチュラルに『周りの期待』に応えようとしていました」
「ですが、だんだん苦しくなってしまって……。次第に、頑張ってきたことを途中で投げ出してしまうことが続くようになってしまいました」
「また、友達であれ恋人であれ、誰かと親密になろうとしても、自分には価値がないと思い込んでいるために、相手はいずれ自分を見捨ててまうのではないか? という気持ちになってしまい……」
「好意を感じて他人に近づいても、途中でもうだめだ、この人はきっと私を見放すに違いないと考えて、唐突に距離を置く、という行動を繰り返していました。当時の私は、周囲を混乱させるような人間関係を、自ら作っていたのです」
「自分でも、私はなんて面倒な人なんだろうと感じていました。これは一体、なぜなんだろう? 私、めちゃくちゃ生きづらい、と」
ところが学校を卒業し、対人支援の現場に入ったときに、自身と同じような生きづらさをかかえた人がたくさんいたそうです。
「私だけじゃないんだなとホッとしました」
そう話す鴻巣さんですが、自身の経験をふまえて、支援の場で心掛けていることがあるのだとか。
「今は、何らかの生きづらさを抱えている人を支援をする際に、まずは”その人の願いを必ず立てる(聞く)”ようにしています」
「ですが、多くの場合で『先生や周りは私に対してこう願っている』と、希望や意思を他人に任せる・委ねる感じで、『自分自身がどう思うか、どう願うか』が、なかなか出てこないのです」
「しかしこれは、主体性のなさの問題ではありません。自分の願いではなく他人の願いが、自分の願いのように感じてしまっている。自己と他者の境界線、つまりバウンダリーの問題だなと感じたのです」
親子関係を見直すために必要なプロセス
子育てにも「バウンダリーの問題」は大きく影響します。
鴻巣さんは「境界線の見直し」がおすすめだと言います。つまり「バウンダリーの引き直し」です。
「バウンダリーの引き直し」の例として、鴻巣さんは<ご自身とお子さんの体験>について話してくれました。