コロナ禍で通学できない! お子さんの「通知表」に納得できましたか?

「通知表って本当に必要?」をテーマにした話題の児童書『サイコーの通知表』を解説

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2020年の通知表 小学生たちは納得したのか

コロナ禍で学校に通うことがかなわず、自宅での学習が推奨されるも、その指示については学校によってまちまち。さらに、遅れた分を取り返せとばかり長期休みを返上しての学びが求められた2020年の小学生たち。

はるか昔に小学生だった児童書編集者は、ふと、考えてしまう。

それでは、2020年の通知表は、2019年より前の子どもたちにつけたそれと比べて、フェアと言えるのだろうか……。
そもそも、この状況下で、「よくできる」「できる」「もうすこし」と一方的に成績をつけられて、子どもたちは納得がいったのだろうか……。

学校という空間では、人が人を評価するということについて、ごく自然に受けいれられている。しかし、その前提にNOを突きつけた児童書が生まれた。それが、児童文学作家である工藤純子氏がこのほど上梓した『サイコーの通知表』(講談社)という作品である。

おそらく多くの大人たちにとって、小学生が主人公の児童書をどのように読めばいいのか、難しいところだろう。

折良く、映画化、ドラマ化、アニメ化された『バッテリー』で野間児童文芸賞を受賞したあさのあつこ氏らを輩出した、登竜門的な同人誌「季節風」に、この本についての書評が掲載された。

全国の小学校で当たり前に配られている通知表のゼロベースからの見直しを提言する勇気ある児童書について、「季節風」の同人であり、児童文学評論も手がける土山優氏の書評を、加筆してお届けする。

児童文学は「子どもたちへの応援歌」

本作『サイコーの通知表』の表紙を開くと、かけられた帯の折り返した部分に、『となりの火星人』と、『あした、また学校で』(ともに講談社)の書影がある。そして、その書影には「小学生の本音が、いっぱい! 工藤純子の本」と記されている。

まさに、その通りだ。『サイコーの通知表』に至るまで、工藤純子が書いたこれらの2作品も、まさに小学生たちが学校というシステムに対し、困っているというホンネをぶつける作品だ。

子どもたちに人気の『1ねん1くみ1ばんワル』から始まる全26巻の「1ねん1くみ」シリーズ(ポプラ社)や、『野心あらためず』(野間児童文芸賞受賞作)などの作品で知られる児童文学作家、後藤竜二が言った言葉を思い出す。

「ひとクラスに30人いれば、そこに30通りの物語がある」
「児童文学は、子どもたちへの応援歌だ」


この言葉は、児童文学を書く後藤本人の心構えとして語られたものであるが、本作品を読んでみて、工藤純子が紡ぐ物語もまた、この言葉と同じ視点に立つものであると、強く感じた。

後藤竜二は40数年前、「季節風」という、「相互合評を大切にして、プロもアマも、ベテランも新人も、自由対等な関係で志高く書き続けよう」と呼びかけ、児童文学を書く者たちが切磋琢磨する場を立ち上げた。
草創期からは、『バッテリー』で野間児童文芸賞を受賞したあさのあつこや、やはり野間児童文芸賞作家である八束澄子が籍をおいており、昨年、ブラインドマラソンにかける兄弟の絆を描いた『朔と新』で野間児童文芸賞受賞を受賞した、いとうみくも同人である。

そして、この『サイコーの通知表』を書いた工藤純子も、季節風で切磋琢磨する同人であり、志高く書き続けている一人である。

何をがんばればいいのか伝わらない通知表

タイトルにあるとおり、『サイコーの通知表』は、子どもたちに手渡される通知表がテーマである。
当然のことながら通知表には教師からの評価が記されている。しかし、そもそも通知表ってなんなのだろうという疑問を小学4年生の子どもたちが持つところから、物語は始まる。

「あの通知表を見て、何をがんばれば、国語や算数がもっと良くなるかわかるの?」
「通知表があるから、よけいにやる気がなくなるんだ」

たとえば、物語では、算数の評価項目に、こんな記載があると紹介される。
「数量や図形に関心を持ち、進んで学習しようとする」
この文章に、登場する児童の一人は、「だいたいさー、どうしてオレが『進んで学習している』か、『いやいや学習している』か、わかるわけ? 超能力?」と、至極当然のツッコミをする。

子どもたちの主張を突き詰めれば、「よくできる・できる・もうすこしという3つの区分けで、ぼくたち/わたしたちの何がわかるの?」ということになろう。

そんな子どもたちの疑問に、担任のハシケン先生は真摯に向き合う。
例えば「よくできる」「できる」「もうすこし」という三段階の評価のうち、「もうすこし」は、「もうすこしがんばればできる」ということだと説明する。しかし一人の子どもは、「(すでに)がんばっているんだ」と主張する。

「こんないいところがある」と見つけ出す評価

そこでこの物語では、なんと子どもたちがハシケン先生の通知表をつけるということになる。

評価項目は、

「授業」「黒板」「給食」「休み時間」「笑い」「先生らしさ」

とあり、さらに各項目が細分化されている。

たとえば、「授業」の項では、ぜーったいにひいきしない、「黒板」では、全員がうつし終わるまでがまん強く待つ、「休み時間」では、勝ち負けをはっきりさせる――とある。
「先生らしさ」の項目には、子どものことを一番に考えている、とある。

どれもこれも子どもたちから提案された「観点」である。
どんな評価ポイントを盛り込むかについて、彼らはクラス全員で話し合う。しかも話し合った結果を先生に手渡してから、直接言葉で伝えるのである。

「先生らしさ」の項目のなかに、イゲンがあるというものもあった。
教師歴四年で、先輩の教師からしばしば注意を受けているハシケン先生なのだが、受け持っている子どもたちからは、「上から目線ってことでもあるので、先生にイゲンはいらない。大事なのはこどもの意見を聞いてくれること」だという評価を受け、子どもたちの「せーの」のかけ声とともに、ハシケン先生は「よくできる」の評価を言葉でもらう。
子どもたちから、「こんないいところがある」と、この先生はいっぱい指摘されるのだ。

「もっとがんばれ!」ではなく、「こんないいところがある!」という言葉に、ハシケン先生は、「みんながぼくのいいところをみつけようとしてくれたことが、嬉しい」と涙ぐむ。

まさに、評価という行為の原点は、ここにあるのではないか。

通知表をつけるかどうかは学校の裁量範囲

ちなみに、『サイコーの通知表』を読了後、通知表のない学校もあることを知り、調べてみると、なんと通知表というのは個々の学校の裁量範囲だということを知った。

例えば長野県の公立小学校である伊那小学校は、60年も前から通知表もなく、時間割もなく、チャイムも鳴らないといい、学年毎に各クラスの子どもたちと先生が話し合ってなにをするのか決めるのだという。
また、先生同士も徹底的に話し合い、協力し合う。その結果、成功しても、うまくいかなくても、さまざまな経験こそ実りある学びの場になるという考え方だというのだ。
こういう小学校が、しかも公立で存在するのである。

教育制度が始まった明治から倣い性となり、なんら疑問も感じず、当たり前のこととして通知表を記すということを、根本から見直すことも大事ではないだろうか。

コロナウイルスが、2019年末から現在もなお、世界中を席巻し、日本でも非常事態宣言が発令され、行動規制がなされた。
一時期は全国的に学校も閉鎖され、その後にはネット通信によるリモート授業や時間差登校などが行われた。

このような状況下で成績評価なんぞ、どのように行うことができるというのだろう。
京都の公立小中学校のなかには、一学期の通知表を渡さないという決定をした学校もあるという。

コロナ禍という未曾有な日々に在って、私たちの生活は、あらゆる価値観の変更を求められている。
教育現場は、なによりも真っ先に価値観の変更が、急務なのではないか。

どんな時代もストレスの最前線にいるのは、子どもたちなのだから。

(「季節風」146号所収の書評に加筆しました)

『サイコーの通知表』
著:工藤純子 講談社

土山優プロフィール
児童文学の評論や書評を、『季節風』『児童文芸』『小学図書館ニュース』などの諸誌に執筆。かつて絵本テキストを執筆したことがある。『海のむこう』(小泉るみ子・絵 新日本出版社)。季節風同人。