アン ミカ 母の「4つの魔法の言葉」がケガをして笑えなくなった自分を変えた

【アン ミカさんと考える子どもの未来 前編】長所に気づくために今、大事なこと

コンプレックスが多かったと話すアン ミカさんを救ったのは、母の教え。 写真提供:株式会社テンカラット
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将来、我が子がどんな職業に就くのか。

2011年8月、キャシー・デビットソン氏(米デューク大学の研究者)がニューヨークタイムズ紙のインタビューで「2011年に小学校へ入学する子どもたちの65%が、今はまだ存在していない職業に就く」と予測しました。

実際に近年は、親世代では想像もできなかった職種が次々と登場し続けています。

どんな時代、あるいはタイミングでも子どもが進路に迷ったときには、そばで応援してあげたいと思うのが親心。それには、我が子の長所や特性を知っておくことがとても大事です。

アン ミカさんはお母さんからいわれた言葉を素直に受け止め、15歳からモデルの道を歩みました。

5人のきょうだいはみんな、母親から長所を見出されたことが職業を選ぶきっかけになったそうです。

お母さんと普段からどんな会話をされていたのか、親子の距離感についてうかがいました。

◆アン ミカ
モデル、タレント。1972年生まれ。韓国出身。大阪育ち。1993年パリ・コレクションに出演。モデルのほか、ジュエリー・ファッションデザイナー、化粧品プロデュース、エッセイスト、歌手、バラエティー出演など幅広く活躍。

『アン ミカさんと考える子どもの未来』は、前後編。
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母の言葉が心地よかった

アン ミカさんは5人きょうだいの3番目に生まれました。上には兄と姉、下は弟と妹に挟まれ、賑やかな環境で育ちます。

いつも家族の中心にいたのは、大好きだったお母さん。子ども思いの、優しい、愛情溢れる人だったそうです。しかしお母さんは、残念ながらアン ミカさんが15歳のときにがんで亡くなります。

これまでにアン ミカさんは何度もメディアで、お母さんとの思い出について語っています。
そこでたびたび話題にしたのは、お母さんとの何気ない会話のこと。人生の選択や悩みにぶつかったときは、母の言葉が支えとなってそれらを乗り越えられてきたことです。

また、お母さんはきょうだい5人、それぞれの長所を見つけるのが上手で、わかりやすく伝えてくれたそうです。それはのちに、子どもたちの将来の職業につながっていきました。

現在、長男は行政書士、長女は歯科衛生士、次男は柔道整体師・鍼灸師、三女はボディセラピストに。そして、次女のアン ミカさんは誰もが知るモデル・タレントです。

アン ミカさん自身もお母さんから「手足が長いからモデルに向いてるかもしれない」といわれ、その言葉を素直に受け止めたことで、将来の目指す職種が決まりました。

ですが、なぜ5人のきょうだいはお母さんの言葉どおりの職業に就いたのでしょうか。

「今でもはっきりしたことはわからないのですが、私たち親子の場合は信頼関係が構築されていたと思います。

『あれをやりなさい、これになりなさい』とはいわれたことはなくて、例えば『お兄ちゃんは理屈っぽいけど、話すことが面白いから、話術を活かして困っている人を助けてあげられたらいいね』とか、子どものいいところを見つけて褒めてくれるのがとても上手でした。

私も無理に期待に応えようなんて思ったことはなく、ふ~んって感じで聞いていましたね」(アン ミカさん)

お母さんからの提案が、自分たちに合っていて心地よさを感じたというアン ミカさん。学生時代の部活動についても、思い出があります。

「姉が、少し身体を揺する癖があったんです。でも、音の反応がいいから楽器をやってみたらと提案したのも母でした。

エネルギーが充満していた時期でしたから、姉もその気になって吹奏楽部でパーカッションを始めました。

私は運動神経が良かったので、お金のかからないスポーツならやってみたらといってもらえたので、サッカーや陸上に挑戦できたんです。

でも、『やるからには、最後まで責任を持ってやること!』と、そこは母親としての厳しい一面もありました」(アン ミカさん)

人生は常に選択の連続です。母親からの提案で進んだ道だとしても、最後は自分自身が決めて選びます。アン ミカさんは、何事も簡単に投げ出さないことを心に刻みました。

ラーメン屋さんの手伝いをするのが日課

アン ミカさんは4歳のころに韓国から日本に来ました。家族7人で大阪に暮らし、両親は自宅の1階でラーメン屋を開業します。

子どもたちは学校から帰ってきても、両親とゆっくり会話ができる時間はなかったといいます。9歳のころ、お母さんにがんが発覚してからは、闘病生活も始まりました。

「両親が元気に健康的に過ごせたのは私が8歳くらいのときまでなんです。

よく覚えているのはラーメン屋さんで働いていたころのこと。営業時間が夕方5時~次の日の朝5時までで、私たちも学校が終われば開店前のお店を掃除するのが日課でした。

お店の柱をカンカン叩く音が聞こえるとそれが夕飯の合図で、カウンターの端で食べていたんです。

朝になれば両親は仕事が終わって爆睡していましたから、いつも子どもだけで身支度をして学校に通っていた記憶があります。

月2回の平日休みも、きょうだいで両親の取り合いで大変でしたね」(アン ミカさん)

遊びたい年頃にもかかわらず、店内を掃除し、弟や妹の面倒も見たと話すアン ミカさんは、学生時代は新聞配達を何年も続け、その後は努力を惜しまない人へと育っていきます。

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