『小公女』でも『小公子』でもないバーネットの最高傑作とは

『秘密の花園』大正時代の翻訳の主人公たちの名前は「毬子」「公二」「陸三」

翻訳家:谷口 由美子

「大草原」シリーズや『若草物語』など数々の児童書の翻訳を手がけてきた谷口由美子さん。2023年11月に『秘密の花園』の新しい訳書を発表したばかりです。翻訳をすすめるなかで、あらためてこの物語の魅力に気づいたといいます。「子どものころ読んだことがある方も、ぜひ完訳で読んでいただきたい」という『秘密の花園』の魅力、そして翻訳について教えていただきました。
『秘密の花園』 カバー絵より (絵:北澤平祐 講談社)

完訳で通して読んでこそ、原作の深い味わいが感じられる

『秘密の花園』の原作(The Secret Garden)が出版されたのは、1911年です。その後まもなく、大正時代に岩下小葉訳で『秘密の花園』が出ました。そのときの主人公メアリの名前は毬子、コリンは公二、ディコンは陸三となっていました。外国人のカタカナ名ではなく、日本人の名前にしたほうが読者になじみやすいからでした。そんな昔から、この物語は、タイトルはほぼ不動のまま、多くの人々に愛され続け、今に至っています。

小学生低学年のお子さんたちは、短いダイジェストの本で物語の筋は知っているかもしれません。わたしも、子どものときにはダイジェスト版で読んだものですが、やはり一冊のものとして通して読んだときの感動は、まったく別ものだと思いました。完訳で通して読んでこそ、原作の深い味わいが感じられるのだと思います。
翻訳家の谷口由美子先生
深い味わいをもたらすもののひとつは、「魔法」です。「魔法」といっても、この物語は魔法使いや妖精などが登場する、いわゆるファンタジーではありません。けれども、メアリが偶然、鍵を見つけて、発見した「秘密の花園」は、やっぱり「魔法の庭」だったのです。そこでは、信じられないようなことが次々に起こりました。つむじまがりでやせっぽちだったメアリは、見る見る朗らかで元気な女の子になり、偏屈で、不健康だったコリンは、自分の未来に期待を見出して、丈夫な体を取り戻し、息子コリンの顔を見るのがつらくてずっと屋敷を離れていたお父さんは、亡くなった妻のはるかな呼び声に導かれて、花園へ行き、そこで見違えるようにはつらつとしたコリンに出会うのです。これこそ、花園がかけた魔法といえるでしょう。

第26章で、子どもたちはバラの花咲く花園で、自然の恵みを体いっぱいに受けて、うれしくてたまらず、声をあげて歌をうたっていました。そのとき、自然児ディコンの母さんが花園にやってきて、みんなの幸せそうな様子を見ていました。そして、コリンに「魔法を信じますか?」ときかれた母さんは、「もちろん、信じるだっし……それは偉大な力……よろこぶ力なんだっし」といいました。不機嫌で、何をやってもおもしろくなかったメアリや、生きていてもちっともいいことがないと思っていたコリンは、自分の身近にあった小さな楽しみに気づいて、おそるおそる一歩を踏み出したことで、大きなよろこびを見つけるきっかけをつかんだのです。

素朴でたくましいイメージのヨークシャー弁の訳はオリジナル

作者フランセス・ホジソン・バーネットは、1849年、イギリスのマンチェスターで生まれました。3歳のときに父親が急死し、一家は苦しい生活を送ることになりますが、16歳のときに新天地アメリカへ移住しました。けれど、相変わらず暮らしは貧しく、家計を助けるために、雑誌に短編小説を投稿し、それが掲載されたことから、バーネットは作家への道を踏み出しました。結婚後、ふたりの息子が生まれ、次男ヴィヴィアンをモデルにしたといわれる『小公子』は、大変な人気を呼びました。『小公女』も同じくよく知られていますが、その後に書かれた『秘密の花園』こそ、バーネットの作品として最も高い評価を得ている傑作です。

物語の舞台は、イギリスの北にある、ヨークシャー地方の荒野(ムーア)です。夏になると、赤紫色のヒースの花がいっせいに咲き、黄色いぴかぴかしたエニシダやハリエニシダのかわいい花がそれに色を添えます。けれど、冬はマーサがいったように「荒ぶる風」が吹きまくります。その荒々しい光景は、同じくヨークシャー地方を舞台にした名作『嵐が丘』(作:エミリー・ブロンテ)の物語を思い起こさせるようです。

ところで、本書の中では、いわゆるヨークシャー弁が飛び交っています。といっても、メアリたちは英語でしゃべっているのですから、日本語でそれをどう訳したらよいか、さんざん悩みました。ヨークシャー地方の方言を、さしたる根拠もなく、日本のどこかの方言にあてはめることなどできませんから、語尾変化で、素朴でたくましい感じが出るようにしてみました。 

マーサやディコンや母さんは、「……するだっし」といい、年寄りの庭師のベンは、「……するだっさ」といいます。メアリやコリンは、ヨークシャー弁をしゃべらないので、ディコンたちのことばとはすぐに区別がつくでしょう。  

作者バーネットがこの物語の構想を得たのは、イギリス南東部のケント州ロルヴェンデンにあるメイサム・ホール屋敷に住むようになったときでした。彼女は、そこで長らく手入れされていなかった庭を見つけて復活させ、美しいバラ園を作り上げました。ある日、その花園で、バーネットはコマドリを見かけます。イギリスのコマドリは、北アメリカのコマドリとくらべて、ずっと小さく、形も違う、とバーネットはいっていたそうですが、このコマドリが、物語の人なつこいコマドリ君のモデルになったのでしょう。

のちにバーネットはメイサム・ホール屋敷を去り、アメリカに住む息子ヴィヴィアンの助けを得て、ニューヨーク州ロングアイランドのプランドームに住まいを移しました。1905年にアメリカの市民権を得ていた彼女は、この新しい住まいで、再び庭作りに情熱を注ぎました。そしてついに、『秘密の花園』を書き始めたのです。その地で、バーネットが75年の生涯を閉じたのは、1924年のことでした。

谷口由美子

翻訳家。山梨県生まれ。上智大学外国語学部英語学科卒業。アメリカに留学後、児童文学の翻訳を多数手がける。主な訳書に『若草物語1&2』『大草原のローラ物語――パイオニアガール』、著書に『サウンド・オブ・ミュージック トラップ一家の物語』、『大草原のローラに会いに――「小さな家」をめぐる旅』などがある。
                                                                       
『秘密の花園』
作:F・H・バーネット 訳:谷口由美子 装画:北澤平祐 講談社

*中学生以上の漢字にルビ
たにぐち ゆみこ

谷口 由美子

Yumiko Taniguchi
翻訳家

翻訳家。山梨県生まれ。上智大学外国語学部英語学科卒業。アメリカに留学後、児童文学の翻訳を多数手がける。主な訳書に『若草物語1&2』、『...