山口真由「子どものころの夢は牛になること」

【WEBげんき連載】わたしが子どもだったころ #11山口真由(前編)

ライター:山本 奈緒子

【WEBげんき連載】わたしが子どもだったころ

「あの人は、子どものころ、どんな子どもだったんだろう」
「この人の親って、どんな人なんだろう」
「この人は、どんなふうに育ってきたんだろう」

今現在、活躍する著名人たちの、自身の幼少期~子ども時代の思い出や、子ども時代に印象に残っていること、そして、幼少期に「育児された側」として親へはどんな思いを持っていたのか、ひとかどの人物の親とは、いったいどんな存在なのか……。

そんな著名人の子ども時代や、親との関わり方、育ち方などを思い出とともにインタビューする連載です。

第11回は、弁護士であり元エリート官僚、コメンテーターとしても活躍し、先日出産育児のため、一定期間の休養に入られた山口真由さんです。

子どものころの夢は牛になること

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大学入試、司法試験、国家公務員Ⅰ種などなど、難しいと言われる試験を突破してきた私ですが、子どものころから勉強漬けだったかというと、北海道という地方で育ったので、むしろ牧歌的な感じでした。学校が終わったら、いったん家に帰ってランドセルを置いてまたグラウンドに集合ね、というような。小学生のときの私は塾も行っていませんでしたし、「勉強しなきゃ」という感覚はとくになかったんですよね。

ただ一つだけ、母が子ども新聞を取っていて。子ども新聞って日曜版には名門私立校の受験問題が掲載されるんですけど、それを毎日曜の朝、母は私に解かせていたんです。それがもう、苦痛で苦痛で。そのころの私は鶴亀算もまだ分かっていないのに、試験問題はXとかYとか使ってくるんですよ。反動で「Xとか絶対使わないで!」と、むしろ勉強嫌いになっていたくらいです。

ちなみに私の両親は2人とも医者なのですが、私は解剖が大の苦手だったので「医者になりたい」という夢は早々に消えていました。それで小6のとき、城山三郎さんの小説が原作のドラマ『官僚たちの夏』を見て、官僚になりたいと思うように。でも実を言うと子どものころは短冊とか文集には、いつも「牛になりたい」と書いていました。意味不明ですよね。どういうことかというと、思春期に入ってからは8キロ太ったこともあったりして、私はものすごく食べるのが好きだったんです。常に食欲との戦いを繰り返していたんですけど、牛さんたちはむしろ食べることが仕事。それで憧れていたのですが、今思うと完全にどうなの? って思いますよね(笑)。

私を猛勉強に向かわせた母のひと言

そんな私も中学に入ると、一生懸命勉強をするようになりました。よく、小学校まではそんなに勉強しなくてもテストでいい点が取れるけど、中学に入ると急に難しくなるのでみんなつまずく、と言われるじゃないですか。私は臆病者なので、それが怖くて必死で勉強したんです。

一方、小学校のころは子ども新聞の問題を解かせるなど教育熱心だった母ですが、私が中学に入った途端、何も言わなくなって。むしろ「早く寝なさい」とか、勉強していても「ちょっと休憩したら?」とのんびりした感じでした。でも私はさっきも言ったように臆病者だったので、誰にお尻を叩かれなくても頑張って勉強をしたわけです。その結果、何と入学した最初の試験で学年2番を取ったんですね。当然、得意になって親に結果を見せるじゃないですか。すると……、母はただひと言、「あら、実力が出し切れなくて残念だったわね」と言ったんです!

私は思わず、母の目をマジマジと見返しました。この人は、どういうつもりでこのひと言を言ったんだろう? と。でもどう見ても、嫌味でもなく、私にプレッシャーをかけようとしている感じでもない。本当に純粋に「実力を出しきれなくて残念だな」と思っているのが伝わってきたんですよ。つまりそれぐらい、母の私に対する信頼はすごかったということ。そしてこの純粋な信頼ほど、子どもにとって怖いものはなかった。「勉強しなさい」なんて言われるよりもはるかに怖い……。この人は私のことをものすごく買いかぶっているんだなと、ゾクゾクッとして。ああそうか、私はこの期待にこたえなきゃならないんだ、と気づいたんです。私が本気で勉強するようになったのは、間違いなくこの瞬間からでしたね。
写真/PIXTA(ピクスタ)

中学生のとき、全国模試で1位に

そこからはとにかく勉強しました。私は決してもとのIQが高いわけではなかったので、量で勝負する必要がありましたから。母は相変わらず「早く寝なさい」とばかり言っていましたが、私が寝ている間に、もっと頭のいい同級生は勉強しているかもしれない。だから母の前ではとりあえず布団に入って見せるんですけど、そのあとで懐中電灯をつけて布団の中で教科書を読んでいましたね。

ただ幸いだったのは、私は体が極めて頑丈だったんです。運動神経は悪いんですけど、多少無理をしても何とかなってしまう体力はあった。でもそれはよく考えてみると、私が幼いころから親が非常に規則正しい生活を送っていたことが良かったんじゃないかと思うんです。その生活リズムに合わせているうちに、体力がついたし、精神的にも健康でいられた。勉強って、体力と精神力勝負なところがありますから、私はそういう点では能力があったと言えるかもしれません。そこは、親に感謝しているところではありますね。

そうして頑張った結果、学年1番になれただけでなく、何とあるとき全国でも1番になってしまったんです。そのときは選択問題で選んだ答えがだいたい当たった、というツキもあったんですけど、そのおかげで塾の先生が「東京の進学校に行かないか?」と声をかけてくれて。このことが私に、違う世界がある、ということを気づかせてくれたんです。
というのも当時の私は、勉強こそできたけど、スクールカーストでは下のほうにいたんです。中学生のころというのは残酷なもので、勉強ができることよりも、容姿の優劣や運動神経、コミュニケーション能力などで格付けがなされていくものです。だから勉強以外が全て苦手な私は、ずっと惨めな感じでした。しかも私の家の隣には、クラスで一番イケている男の子が住んでいて。私が一生懸命オシャレをして出かけると、その家に集まっていた男子グループに「山口が昨日、こんな格好をしていた」などと言ってきて笑われていたんです。

それがもう本当にツラくてツラくて。それで変身願望を強く抱いていたんです。そんなときに「東京の高校」という選択肢を提示されて。そうか、この空は北海道を超えて東京までつながっているんだ、そこに仲間入りできたら私も変身できるかな、と思ったんですよね。それまでは「変わりたい」という抽象的な夢だったのが、そのとき初めて具体的なゴールにできるのかもしれない、という思いが芽生えたんです。それで受験をして、東京の筑波大学附属高校に進学することになったわけです。
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