69自治体に拡大した「子どもの権利条例」 なぜ川崎市で最初に制定? 「国連子どもの権利条約」批准30年で何が変わった?

子どもの権利条約批准30周年“子どもの権利”の現在地#1~子どもの権利の成り立ち~

フリーライター:浜田 奈美

日本が「子どもの権利条約」を批准した1994年は、川崎市にとって市制70周年でした。当時の高橋清(たかはし・きよし)市長は、周年イベントとして「子ども議会」を開催。市内の小中学校、特別支援学校、そして外国人学校に通う子どもたちが集まり、身近な疑問から「未来の川崎」まで、幅広く意見を交換し、大盛況となりました。

周年イベントの数年前、川崎市では「地域教育会議」という住民自治組織が生まれ、市内全域に広がりました。

「地域教育会議」とは、1990年初めに川崎市内の各区と中学校区に設置された、学校教育と社会教育との「連携」を目指す住民自治組織です。地域住民と学校が協力し、子どもの支援や生涯学習活動などに、現在も取り組んでいます。

全国的に学校が荒れていた1980年代、川崎市でも、予備校生が両親を金属バットで撲殺するという衝撃的な事件が起きました。これをうけて1984年に「川崎の教育を考える市民会議」が開催されました。「子どもたちのために何をしたらいいのか」をテーマに、2年間にわたって市内242ヵ所で計4万人が集い、議論が交わされました。

このときの「市民会議」が形を変えて市内全域で根付いた一つの形が「地域教育会議」です。

早稲田大学名誉教授で、川崎をはじめとするさまざまな自治体の「子どもの権利条例」の作業に関わり続ける「子どもの権利条約総合研究所」顧問の喜多明人(きた・あきと)さんが、こう解説します。

「条例制定へと続くうえで、川崎独自の背景はありました。まず公害問題があり、在住外国人との共生の歴史があり、差別の問題や人権意識に取り組んできた長い蓄積がありました。そしてもっとも大きかったのが『地域教育会議』の実績だったと思います」

戦後まもなく京浜工業地帯に住み着いた外国人労働者たちの人権問題や、その子どもたちの戸籍の問題や教育問題など、固有の問題に対応してきた行政と、住民たちの歴史があったのです。

そのうえで、1997年の市長選で、3選を目指した現職の高橋清市長が「子どもの権利条例の制定」を公約に掲げて当選し、動きは一気に加速しました。

子どもの声を聞き250回以上の話し合いを経て制定

1998年9月から「条例検討連絡会議」が始まりました。そしてこの連絡会議の「作業部会」の座長を喜多さんが務め、学識者や不登校支援を続ける民間団体関係者などの大人14人と共に、9人の「子ども委員」が入り、対等に審議に参加しました。

喜多さんは座長として、大人の委員たちにこんな合意形成を図ったそうです。

「特に学識者は自分の持論にそって議論を進めがちですが、我々はあくまでもコーディネーター。子どもたちがどんな権利を求めているか、子ども自身の声を中心に考えよう」

その結果、子どもたちは自由に自分の考えを発言しました。

「学校は『指導』が多すぎる」とか、「自分の意見を大人は対等に聞いてくれない」などなど。喜多さんも、ある男子中学生の発言を、よく覚えているそうです。

「イイヅカくんという男の子で、今ブラスバンド部にいるけれど、本当はサッカー部に入りたかったのに、お母さんが『サッカー部はダメ。文化部にしなさい』と言うから仕方なくブラバンやってると。部活ぐらい自分で決めたかったと。『自分のことを自分で決めたい』という願いが切実なら、それはその子にとっての子どもの権利だろうと考え、『自分で決める権利』として形になりました」

作業部会のメンバーは250回以上の話し合いを重ね、一つ一つの「声」を審議し、条例案にしていきました。現在も多くの自治体の「子どもの権利条例」にかかわる喜多さんによれば、「多くの自治体では、条例案ができるまでの審議回数はだいたい10回程度」だそうです。いかに川崎が念入りに議論を重ねたか、一目瞭然です。

川崎市は今年、市制100周年を迎えました。「子どもの権利」にフォーカスした70周年から30年がたち、条例制定から四半世紀近くなり、いま改めて「子どもの権利」と向き合っています。次では川崎市の具体的な取り組みを紹介します。


取材・文/浜田奈美

フリーライター浜田奈美が、難しい病や障害とともに生きる子どもたちが子どもらしく過ごすための場として横浜に誕生したこどもホスピス「うみとそらのおうち」での物語を描いたノンフィクション。高橋源一郎氏推薦。『最後の花火 横浜こどもホスピス「うみそら」物語』(朝日新聞出版)
すべての画像を見る(全3枚)
この記事の画像をもっと見る(全3枚)
16 件
はまだ なみ

浜田 奈美

Nami Hamada
フリーライター

1969年、さいたま市出身。埼玉県立浦和第一女子高校を経て早稲田大学教育学部卒業ののち、1993年2月に朝日新聞に入社。 大阪運動部(現スポーツ部)を振り出しに、高知支局や大阪社会部、アエラ編集部、東京本社文化部などで記者として勤務。勤続30年を迎えた2023年3月に退社後、フリーライターとして活動。 2024年5月、国内では2例目となる“コミュニティー型”のこどもホスピス「うみとそらのおうち」(横浜市金沢区)に密着取材したノンフィクション『最後の花火』(朝日新聞出版)を刊行した。

1969年、さいたま市出身。埼玉県立浦和第一女子高校を経て早稲田大学教育学部卒業ののち、1993年2月に朝日新聞に入社。 大阪運動部(現スポーツ部)を振り出しに、高知支局や大阪社会部、アエラ編集部、東京本社文化部などで記者として勤務。勤続30年を迎えた2023年3月に退社後、フリーライターとして活動。 2024年5月、国内では2例目となる“コミュニティー型”のこどもホスピス「うみとそらのおうち」(横浜市金沢区)に密着取材したノンフィクション『最後の花火』(朝日新聞出版)を刊行した。