不登校から「オードリー・タン」が生まれた台湾に日本再生の鍵が!
(対談)石崎洋司×近藤弥生子
2022.05.06
1981年台湾・台北市出身。生後間もなく重い心臓病を患う。小学校になじめず8歳で不登校に。複数の学校を経て、ドイツで学んだのち、中学に上がるのを機に「台湾の教育を変えたい」と台湾に戻る。14歳でいっさいの学校に通うのをやめることを決意。以降、プログラミングとITビジネスの分野でめざましい活躍を続け、Appleの顧問などを歴任。「ITの神さま」と称される。33歳でビジネスからの引退を宣言。2016年に発足した蔡英文政権に、史上最年少の35歳で入閣。デジタル担当政務委員(日本の大臣にあたる)として迅速な新型コロナ対策で世界的に有名になる。
オードリー・タンさんは、台湾のデジタル担当政務委員。
<デジタル技術を人間のために使い><市民とともに仕事をする>大臣として有名です。そして世界で初めてトランスジェンダーであることを公表した閣僚でもあります。
日本でもネット、テレビ、オンライン講演会等でひっぱりだこ。オードリーさんの何がこんなに人々をひきつけるのか?
『「オードリー・タン」の誕生 だれも取り残さない台湾の天才IT相』(講談社刊)を刊行した作家の石崎洋司さんと、台湾在住で、オードリー・タンさんの著書も多い、近藤弥生子さんに語り合ってもらいました。
オードリー・タンの原点は、小学校時代の不登校にあった!
近藤弥生子(以下、近藤):今回の伝記、大人も読める児童書ということですが、わかりやすく、そして大切なことはすべて書かれていて、すごいと思いました。
オードリーさんって、論点がすごく多い方なので、わたしは、それがとても大変だったんです。石崎さんはいかがでしたか?
石崎洋司(以下、石崎):ありがとうございます。ほんとうにそう。
こんなに切り口の多い人はいないですよね。ギフテッド、不登校、天才ハッカー、十代での起業、トランスジェンダー、ITの神様、ソーシャル・イノベーション……。
わたしもインタビューしましたが、彼女は誰のインタビューでも受けてくださる。
しかもその内容は、公式のサイトにアップロードされている。ネットの記事も本もたくさん出ています。情報がありすぎるぐらいです。
そのなかで、わたしが日本人の子どもたち、そして大人たちに向けて、何を伝えたいかといったら
<どうしてオードリーさんのような人が生まれてきたのか>、<台湾ではどうして受け入れられているのか>
ということでした。
そして、その鍵となるのは小学校時代の不登校ではないかと。
そこで一番助けられたのが、近藤さんが再編集して翻訳された『オードリー・タン 母の手記「成長戦争」 自分、そして世界との和解』(KADOKAWA刊)でした。
出会う人の心を自然に変えていく、オードリー・タン
近藤:ありがとうございます。そう言ってくださって嬉しいです。
オードリーさんや、お母さんの李雅卿さんの言葉を、この本では、なるべくそのまま載せるようにしました。
今回の石崎さんのように、きっと後に続いて書いてくださる方がいると信じていたので、なるべく一次情報に近いものになるよう、私自身の考えは入れないようにしました。
それが台湾に住むライターである、わたしにできる貢献だと思ったからです。担当の編集者には、「近藤さんは武士みたいに潔い人ですね」と言われましたけど(笑)。
石崎:それを聞くと、近藤さんご自身も、オードリー・タンさんのようになっている感じがします。
オードリーさんは、ご自身の著作権・肖像権を放棄して、みんなが無償で使える「オープン・ソース」にされていますね。情報公開と公共に貢献するということが徹底されている。
そもそも近藤さんは、どうしてオードリーに興味を持たれたのですか?
近藤:わたしは台湾でシングルマザーとして6年を過ごし、台湾の人々や自由さ、子育てのしやすさに、とても助けられたので、いつか恩返しをしたいと思っていました。
再婚し、ライターとしても仕事ができるようになったとき、恩返しと同時に、日本にも貢献したいと思って、「台湾にあって日本に欠けているもの」を伝える企画提案をしました。
ところが「日本が台湾から学ぶ?」と受け入れてもらえませんでした。
「オードリー・タンのことだったら、いけるかも」と再提案して通ったのが2019年でした。
石崎:オードリーさんが、新型コロナ対策に辣腕をふるって世界中で有名になったのが、2020年のはじめですから直前ですね。
台湾ではいつ頃から有名だったんですか? 2016年に、蔡英文政権に最年少の34歳で入閣してからですか?
近藤:わたしが以前いたデジタル業界では、もっと前から「ITの神様」として知らない人はいなかったですね。
2014年に、台湾では、学生が国会議事堂を占拠する「ひまわり学生運動」が起きて、オードリーさんはそれを中立な立場からネットで中継することに関わります。
その時ぐらいから政府関係者や意識の高い人には「オードリーさん、すごいぞ」と知られていました。
2016年の入閣で、一般のだれもが知るようになったと思います。
オードリーが台湾の教育を大きく変えるきっかけになった!
近藤:でも最初に有名になったのは、教育関係の方です。
お母さんの李雅卿さんが1997年に出版された手記『成長戦争』で、オードリーさんを育てた経験や、自ら学校を設立する経緯を書かれてベストセラーになったんです。
当時、「天才児現れる」とたくさん取材を受けたそうです。
石崎:オードリーさんが小学校で不登校になったことは、日本でもよく知られています。でも「壮絶ないじめを受けた」という扱いのことが多い。
実際には、いじめだけでなく、体罰の問題や、「子どもが学びたいことを学べない」システムの問題もあります。
これらを、わずか8歳にして理解して、絶望するわけです。
その経験から、お母さんの李雅卿さんが、当時の台湾にはほとんどなかった教育実験校の「種の学苑」を設立したこと。
オードリーさんが、台湾の教育の変革に大きく関わっていることは、近藤さんの本が出るまでは、あまり知られていなかったと思います。
李雅卿さんは、学校制度の中で苦しんでいる子どもたちのために、「子どもが自分の学びたいことを学べる学校を作ろう」と立ち上がられたわけです。
台湾では、お母さんが学校を作ったことは、どう受け止められたと思いますか?
近藤:1994年当時の感覚で言うなら、「とても難しいことだけど、必要なことだよね」ということだったのではと思います。
一方で、学費は高くて、施設は粗末だったりするわけで、そこに価値を見出せない人もいたと思います。
台湾では、日本人以上に、そういう目に見えるもので価値を判断するところがありますし。
石崎:今回の伝記では、オードリーが小学校で抱いた疑問「教室では、なぜみんなが同じことを学ばないといけないのだろう」を、ひとつの軸に据えました。
誰もが当たり前だとすることに疑問を感じてしまうオードリーを、結局のところ台湾は受け入れていますよね。ひまわり学生運動のときも、政府の大臣としても。
オードリーが通った公立中学の校長先生は、「毎日、学校に通わなくても、学習計画を出せば良いよ」と配慮してくれています。
お母さんの李雅卿さんが学校を設立しようとした時も、法律の問題があって、市の担当者は拒絶したけど、県の教育長は応援してくれた。
公務員なのに真逆の反応なんだと驚きましたけど。
近藤:台湾では、窓口の担当者によって対応が変わるということは、よくあります。
信念による場合もあれば、面倒くさいからしたくないという部分も含めて。これは、全国どこでも対応が同じという日本が凄い、ということでもあるのですが。
ただ当時の台湾で「こんな社会でいいわけない」と思っている人が一定数いて、リレーのバトンパスのように、次々と信念をもって柔軟に応じてくれた。それにオードリーさんは救われてきた、それは間違いないと思います。