今年(2024年)はいわさきちひろの没後50年にあたり、ちひろの絵本を多く手がけた童話作家・立原えりかさんと、記念展示を行っているちひろ美術館・東京を訪れました。
立原えりかさんにとって、ちひろとの思い出の場所です。
ちひろってどんな人だったのでしょう?
「あこがれの絵本画家でした」という立原さんに、ちひろの思い出を伺いました。
受付アルバイト先に、いわさきちひろさんが現れる
──いわさきちひろとは、どのような関わりだったのですか。
立原えりかさん(以後、立原さん):高校生の長期休みのときに、父が勤めているヒゲタ醬油の受付のアルバイトをしていました。すると、ちひろ先生が打ち合わせにお越しになったんです。それで、応接間にお通ししたんですよ。
──ちひろとわかったのですか。
立原さん:だって、受付で「いわさきちひろです」っておっしゃるのですもの。打ち合わせが終わって部長がちひろ先生とお茶をしに出かけていく後姿を、「いいなぁ~」と思いながら、うらやましく見つめていました。すでに当時は、すごくきれいですてきな絵をお描きになる方だと知っていましたし、とにかく大人気の画家でしたから。
──ちひろはどんな方でしたか。
立原さん:36歳くらいだったと思いますが、まるで女学生のようにかわいらしくて。小柄で、おかっぱの前髪をピンで止めてね。必要なことしかおっしゃらない控え目な方でした。応接室にお茶をお持ちするお仕事をさせていただけたら、もっとご様子を見られたのですけど、絵にお茶をこぼしてはいけないからとそれもできず、とっても残念でした。
〈ちひろはヒゲタ醬油の広告の仕事を長年続けていました。ヒゲタ醬油のカレンダーからは、アンデルセンの物語をテーマにした≪五つぶのえんどう豆≫などの名作も生まれています。また、その絵は多くの教科書の表紙を飾りました〉
ちひろの死後、絵に文章をつける絵本づくりを
──ちひろが亡くなってから、合作の絵本づくりをされました。
立原さん:そうなんです。1974年にちひろ先生が亡くなって10年ほどたったころ、講談社の編集の方からご依頼をいただいたんです。それで東京・練馬区のいわさきちひろ絵本美術館(現・ちひろ美術館・東京)に伺って絵を探しました。作品保管用の収蔵庫は桐でできていて、引き出しにたくさんの原画がおさめられていましてね。原画を出して見せていただいて、「この絵とこの絵でお話をつくりましょう」と編集の方と相談しました。まず絵があり、それに文章をつけたんです。
〈いわさきちひろ・絵、立原えりか・文で、四季のシリーズ「いわさきちひろ おはなしえほん」として、『夏 はじめてのなつやすみ』(1986年6月刊)、『春 たんぽぽのサラダ』(1987年3月刊)、『秋 あきかぜのおくりもの』(1987年10月刊)、『冬 ふたりのゆきだるま』(1987年12月刊)を順次刊行していきました。ちひろの絵に、立原さんが短いお話や詩を創作してつけた絵本です〉
──文章に合った挿画を描くのがふつうです。逆の方法で作られた、めずらしい絵本ですね。
立原さん:そうなんです。ちひろ先生の息子の猛さんが原画を出してくださって、それを見ながらお話を考えるんです。例えば、手ぶくろを題材にしたお話をつくろうということになると、必要な絵を探しまくるのですが、こっちの絵はミトンで、あっちの絵は5本指の手ぶくろ。お話のつじつまが合わなくなってしまうんです。同じ洋服で、同じ手ぶくろという絵がなかなかなくて、しかたなく絵を少なくしてつくった物語もありました。
──ちひろの絵本を、多くの読者が求めていた、それほど人気があったのですね。一世を風靡するというのはまさにこのことと思うほど、あのころは、世の中にいわさきちひろの絵があふれていました。
立原さん:国語の教科書の表紙に使われていましたから、日本中の子どもたちが手に取っていたんですよ。そんな画家、日本に何人いるかしら。大変でしたけれど、原画を出してもらってあれこれと探したのは、ほんとうに楽しい思い出です。
アンデルセンの悲しいお話も、ちひろの絵ならさみしくない
──水彩で、にじんだ輪郭で絵を描く、夢のように美しい絵が印象に残っています。
立原さん:例えば『おやゆびひめ』のなかで、おやゆびひめがくもの糸をつむいで、もぐらとのおよめいりの日に着る服をつくるシーンがあるんです。そのページのくもがほんとうにこわくてね。「きれいな絵ばかりじゃない、おそろしいくもも描けるんだ」と驚きました。モグラが青いストライプのスーツを着て、赤いネクタイまでつけてすまして歩いていたり。ふつうのアンデルセンの本は、こんなふうに描かれているのはありませんよね。
──立原さんは、アンデルセンのお話をたくさん書かれていらっしゃいます。いろいろなアンデルセンの絵があるなかで、ちひろの絵はいかがでしょう。
立原さん:やさしいんですよ、あったかいのね。『マッチ売りの少女』なんて、とてもさみしくて悲しいお話ですけれど、ちひろ先生の絵になると、あまり悲しくなくなるんです。女の子が雪の中をはだしで歩いていても、不思議とそれほど寒そうに感じないんです。
〈ちひろは、エッセイの中でこのような言葉を残しています。
「私には、どんなにどろだらけの子どもでも、ボロをまとっている子どもでも、夢をもった美しい子どもに、みえてしまうのです」(「子どものしあわせ」草土文化、1963年4月合併号より)
「どんどん経済が成長してきたその代償に、人間は心の豊かさをだんだん失ってしまうんじゃないかと思います。それに気がついていない若者は多いのでしょうけれど、私はそのことに早く気づいて、豊かさについて深く考えてほしいと思います。私はわたしの絵本のなかで、いまの日本から失われたいろいろなやさしさや、美しさを描こうと思っています。それを子どもたちに送るのが私の生きがいです」(「人生手帳」文理書院、1972年12月号より)〉
──一生をかけて、子どもの魅力を描き、子どもたちの幸せを祈り続けたいわさきちひろ。どんなにみすぼらしくかわいそうにみえる人間の中にも美しさをみつけ、「きっと心のなかは豊かである」という、ちひろの願いが絵のなかに込められているのかもしれません。
いわさきちひろ
没後50年記念展示
「こどものみなさまへ」
いわさきちひろが亡くなってから50年。
半世紀の時を越えてもなお、ちひろの絵は私たちの心に語りかけてきます。
「あそび」「自然」「平和」の3つのテーマから、現代科学の視点も交えて、ちひろの絵を読み解きます。子どもも大人も、見て参加したくなる、今までにないちひろの展覧会です。
展示テーマ「あ・そ・ぼ」
2024年3月1日(金)~6月2日(日) 安曇野ちひろ美術館
6月22日(土)~10月6日(日) ちひろ美術館・東京
展示テーマ「あれ これ いのち」
3月1日(金)~6月16日(日) ちひろ美術館・東京
9月7日(土)~12月1日(日) 安曇野ちひろ美術館
展示テーマ「みんな なかまよ」
6月8日(土)~9月1日(日) 安曇野ちひろ美術館
10月12日(土)~2025年1月31日(金) ちひろ美術館・東京
1918年、福井県武生(現・越前市)に生まれ、東京で育つ。藤原行成流の書を学び、絵は岡田三郎助、中谷泰、丸木俊に師事。第二次世界大戦後、紙芝居や教科書、絵雑誌、絵本など子どもの本を中心に画家として活躍。生涯にわたって子どもや花を描き続けた。1974年に逝去、享年55。現存する作品は約9600点にのぼる。
●立原えりか(たちはら・えりか) 童話作家
1937年、東京生まれ。高校生のころより童話を書きはじめ、1957年に「人魚のくつ」を自費出版し、日本児童文学者協会新人賞を受賞。1961年に「ゆりと でかでか人とちびちび人のものがたり」で講談社児童文学新人賞を受賞。著書に『立原えりかのファンタジーランド』(全16巻、青土社)、『でかでか人とちびちび人』『うみいろのバケツ』『きんいろのあめ』(すべて講談社)など多数。
●聞き手/高木香織(たかぎ・かおり)
出版社勤務を経て編集・文筆業。2人の娘を持つ。子育て・児童書・健康・医療の本を多く手掛ける。編集・編集協力に『美智子さま マナーとお言葉の流儀』『子どもの「学習脳」を育てる法則』(ともにこう書房)、『部活やめてもいいですか。』『頭のよい子の家にある「もの」』『モンテッソーリで解決! 子育ての悩みに今すぐ役立つQ&A68』『かみさまのおはなし』『エトワール! バレエ事典』(すべて講談社)など多数。著書に『後期高齢者医療がよくわかる』(リヨン社)、『ママが守る! 家庭の新型インフルエンザ対策』(講談社)がある。
いわさき ちひろ
1918年福井県に生まれ、東京で育つ。東京府立第六高等女学校卒業。藤原行成流の書を学び、絵は岡田三郎助、中谷泰、丸木俊に師事。子どもを生涯のテーマとして描き、9600点余の作品を残す。1974年逝去(55歳)。1977年、アトリエ兼自宅跡に、ちひろ美術館・東京開館。1997年、安曇野ちひろ美術館開館。 (写真提供/ちひろ美術館) ちひろ美術館 https://chihiro.jp/
1918年福井県に生まれ、東京で育つ。東京府立第六高等女学校卒業。藤原行成流の書を学び、絵は岡田三郎助、中谷泰、丸木俊に師事。子どもを生涯のテーマとして描き、9600点余の作品を残す。1974年逝去(55歳)。1977年、アトリエ兼自宅跡に、ちひろ美術館・東京開館。1997年、安曇野ちひろ美術館開館。 (写真提供/ちひろ美術館) ちひろ美術館 https://chihiro.jp/