児童養護施設出身モデル・田中れいか「不登校、反抗、自立資金は目標100万円」
児童養護施設出身モデル・田中れいかさんに聞く「なりたい自分になる」 #2~中高生編~
2022.11.26
モデル:田中 れいか
児童養護施設で育ったモデルの田中れいかさん(26)は、自身の経験をもとに「社会的養護」の子どもたちへの理解の輪を広げる情報を発信しています。
オウンドメディア「たすけあい」を開設、著書『児童養護施設というわたしのおうち』(旬報社)を出版するなど、精力的に活動を展開。
今回は施設で暮らした多感な中高生時代を振り返り、今につながる彼女の原動力を探ります。
※第2回(#1を読む)
田中れいかPROFILE
7歳から18歳までの11年間、東京都世田谷区の児童養護施設で暮らす。短期大学卒業後、モデルの道に。ミス・ユニバース2018茨城県大会準グランプリ・特別賞受賞。モデル業のかたわら、自らの経験をもとに、親元を離れて暮らす「社会的養護」の子どもたちへの理解の輪を広げる講演活動や情報発信をしている。
部活で無視…周りの大人たちに見守られた不登校
児童養護施設出身のモデルの田中れいかさん(26)は、親の離婚をきっかけに小学2年で東京都世田谷区にある児童養護施設へ入所しました。
施設で6度目の春を迎え、田中さんは地元の中学に進学しました。施設で小学生のころからバレーボールをやっていたので、迷わずバレーボール部に入部。1年からレギュラーを獲得しました。
しかし、やっかみからか部活仲間から無視されるように。耐えかねた田中さんは、中学2年で不登校になりました。朝、制服に着替えて施設の門を出ようとすると「やっぱり行けない」と引き返すこともあったといいます。
でもそのとき、無理やり理由を聞き出そうとせず、見守ってくれた施設の職員に「今では感謝している」と田中さんは言います。
「朝、学校へ行けなくても、『今日はどうする?』って軽い感じでいつもどおり接してくれて。結局、行けなかった日もそんなに深掘りしてきませんでした。あのころ、あれこれ聞かれていたら反発していたと思います」
登校再開のきっかけは、部活の子が朝迎えに来てくれるようになったことでした。あとから知ったことですが、部員のお母さんや顧問の先生も陰で動いてくれたようです。
保健室登校から再開し、徐々にもとのリズムに。身構えてクラスの教室へ入ると、拍子抜けするほどあっさり迎えられ、翌日から通常登校できるようになりました。
信頼できるピアノの先生との出会い
毎週水曜に顔を合わせていたピアノの先生も信頼できる存在でした。小学5年から高校3年まで、ボランティアの先生にピアノを習いました。実は2年間も順番を待った念願の習い事でした。
週1回、施設の居室からは離れた3階のホールにあるピアノ。特別な場所でマンツーマンで教わる特別な時間でした。
ところが施設のルールに反発する気持ちもあった中学時代、ツンツンした気持ちをレッスンに持ち込んでしまうことも。
何も弾く気になれない日、先生は無理やり弾かせるのではなく、「じゃあ今日は1人で練習しようか」と気持ちを尊重してくれました。3階まで上がる気になれない日には先生が部屋を訪れ、「今日はどうしたの?」と声を掛けてくれました。
そんなある日イライラが募(つの)り、先生の前で楽譜をぐちゃぐちゃに丸めて捨ててしまったことも……。
「今でも反省しているんですけど、あのときちゃんと怒られたんです。『それはやっちゃいけないことでしょ!』ってちゃんと怒ってくれたんです」
いつもは優しくて温和な先生が本気で怒ってくれた──。申し訳なさと不思議なうれしさが、思春期の胸に込み上げました。
ピアノの先生とは卒業後、2人きりで外でお茶をしたり、お花見をしたりするほど仲良しに。
「れいかちゃんは、笑顔がかわいいね」とずっと言い続けてくれ、モデルを目指す自信を与えてくれた存在でもありました。
イライラが募って窓を割ったことも
中学時代は、鬱屈(うっくつ)した気持ちが行動に表れてしまうことが度々ありました。
先輩のマネをして、施設の個室の小窓を割ったことや、壁に穴を開けたこともありました。そういうときは職員から𠮟られ、園長に渋々謝りに行く……というパターン。
大人になって子どもたちの支援に関わる今、思うことがあると言います。
「大人になって思うのは、物を壊すというのも、そのときの生きづらさの表れだったと思います。
ただ『謝れ』ではなく、どうしてそういうことをしたか、気持ちや背景を聞いてもらえていたら、少し違ってたのかなって思います。
今、国の子ども政策に関わっていますが、物を壊す、暴言を吐く、自傷行為は子どもからのSOSなんです。それを理解できる大人を増やす必要があると感じます」