早稲田大学の先生が仲がよい人でも「友だち」とは呼ばない深すぎる理由
早稲田大学の教授・石田光規さんが教える「友だちがしんどい」がなくなる方法(1)
2024.03.16
早稲田大学文学学術院教授:石田 光規
「友だちとの会話に無理して合わせてしまう」「ケンカになるのがこわくて、友だちに自分の意見が言えない」「メッセージの返信に遅れないように必死になる」などなど、友だちとの付き合いで疲れてしまう人が大人も子どもも増えています。なぜそうした「しんどさ」は生まれるのか? どうすればその「しんどさ」は軽くなるのか? 孤独・孤立と人間関係について長年研究している専門家であり、『友だちがしんどいがなくなる本』を上梓した石田光規さんが伝えるヒントをご紹介します。
仲が良い人でも友だちではなく「知り合い」
私は、おつき合いのある人に「友だち」という言葉をできるだけ使わないようにしています。
どんな人でも基本的には「知り合い」であり、それ以上でもそれ以下でもありません。
なぜそうしていると思いますか。
その理由は、私が友だち・友人といった言葉、あるいは概念がとても苦手だからです。
まず、そんなところからお話を始めましょう。
「友だち」とよんだ瞬間から「序列づけ」が始まる
私が友だちという言葉が苦手な第一の理由は、「友だち」という言葉にひそむ順番をつける(つけられる)ような感覚がイヤだからです。
私たちは、だれかを「友だち」とよぶとき、たいていはほかの人と「友だち」を区別しています。
区別の基準はそれぞれあると思いますが、基本的には「友だち」は「そのほか」の人より上に位置づけられるでしょう。「親友」であればなおさらです。
だれかに「友だち」や「親友」という言葉を使うと、それだけで、人を順序づけているような感覚になり、それが私を重い気もちにさせるのです。
「友だち」という関係はあいまいで、もろい
友だちという言葉が苦手なもうひとつの理由は、その言葉の「あいまいさ」によります。
「友だち」というつながりのあり方は、よくよく考えると、とてもつかみづらいものです。
「友だち」とは、究極的には、「おたがいの感覚をよりどころにする関係」といえるでしょう。
おたがいが相手を「友だち」と思っているからこそ、そのつながりは「友だち」だといえるのです。
つまり、友だちの関係性は、当事者の気のもちようで変わってしまいます。
あなたが相手のことを、あるいは相手があなたのことを「友だちではない」と思った瞬間から、友だち関係は壊れてしまうのです。
この点は、友だち関係を考えるうえで決定的に重要です。
こうした理由から私は、知り合った人を無理に「友だち」と「友だちではない人」に分けず、みんな「知り合い」でよいのではないか、と考えているのです。
石田 光規
1973年、神奈川県生まれ。早稲田大学文学学術院教授。東京都立大学大学院社会科学研究科社会学専攻博士課程単位取得退学。博士(社会学)。著書に、『友人の社会史』(晃洋書房)、『孤立の社会学』、『つながりづくりの隘路』『孤立不安社会』(以上、勁草書房)、『「人それぞれ」がさみしい』(ちくまプリマー新書)。おもな著書に『友だちがしんどいがなくなる本』(講談社)、『「友だち」から自由になる』 (光文社新書)がある。
1973年、神奈川県生まれ。早稲田大学文学学術院教授。東京都立大学大学院社会科学研究科社会学専攻博士課程単位取得退学。博士(社会学)。著書に、『友人の社会史』(晃洋書房)、『孤立の社会学』、『つながりづくりの隘路』『孤立不安社会』(以上、勁草書房)、『「人それぞれ」がさみしい』(ちくまプリマー新書)。おもな著書に『友だちがしんどいがなくなる本』(講談社)、『「友だち」から自由になる』 (光文社新書)がある。