
「こどもホスピスを作る!」と立ち上がる有志たちの感動実話 重篤な病の子どもが持つ「人を変える力」とは
「こどもホスピス」#5 ~こどもホスピスの現在地とこれから~
2025.03.04
フリーライター:浜田 奈美
小児がんの治療をしながらも模索
重い病や障害などのため、命が脅かされている子どもとその家族に寄り添う場所として、1980年代はじめにイギリスで誕生した「こどもホスピス」。日本でも2010年代から首都圏や大阪に施設が立ち始め、それぞれの形で運用が進んでいます。
22年には、こどもホスピスの取り組みを支援する議員連盟が設立され、各地のプロジェクトも連携して情報交換を始めました。24年には連携の形が「一般社団法人全国こどもホスピス協議会」と本格的なものになり、こども家庭庁など国との協議を進める基盤が整いました。
そして「うみとそらのおうち」(略称うみそら)の田川尚登(ひさと)さんが小児がんで亡くなった次女・はるかさんへの思いを胸に立ち上がったように、各プロジェクトの中心は、さまざまな背景から「こどもホスピスをつくろう」と決意した人たちです。
「愛知こどもホスピスプロジェクト」の代表・畑中めぐみさんは、看護師時代に小児がん患者と向き合った経験から、仲間とともにプロジェクトを立ち上げました。
「福岡こどもホスピスプロジェクト」の代表・濱田裕子さんは、小児がんを発症した我が子の闘病に伴走した経験があり、看護学やグリーフケア研究を深める研究者の立場から、プロジェクトをけん引しています。
昨年(2024)10月には、「沖縄こどもホスピスのようなものプロジェクト」がNPO法人となりました。代表を務める宮本二郎さんは、小児緩和ケアを専門とする医師の立場から、プロジェクトを始めました。
宮本さんは長い間、沖縄県内の医療機関で小児がんの治療にあたっていましたが、10年ほど前、従来型の医療行為に疑問を持ち始めたといいます。こう語ります。
「医療の進歩により、小児がんの7~8割は治る時代。治療の成功率が高いので、医師としてもやりがいがあります。でも、厳しい治療を受け続けて病院で亡くなる子どもも少なくなく、これでいいのだろうかと。それで小児緩和ケアの勉強を始めました」
「海で魚を突きたい」小児がんの子の願いを実現
2016年、宮本さんは沖縄を離れ、小児緩和ケアの実績がある「大阪市立総合医療センター」の緩和ケアチームに移籍しました。偶然ですがこの年、大阪では「TSURUMI(つるみ)こどもホスピス」(略称TSURUMI)が誕生しました。そして同医療センターには、「TSURUMI」のプロジェクトを中心となって進めた医師たちがいました。
医療センターに通う子どもたちも「TSURUMI」を利用し始め、宮本さんに、「こどもホスピス」という場の魅力を教えてくれました。自身も「TSURUMI」を訪ねてみて、こう思いました。
「沖縄にも、こんな場所があるといいなあ」
ただし「TSURUMI」のプロジェクトでは、5億円を超える総事業費が大手企業と日本財団から拠出された経緯があります。そのため当時は「憧れ」でしかありませんでした。
ところが2021年11月、横浜に「うみそら」が開設されました。総事業費のほとんどを寄付やチャリティーイベントで集めたと聞き、こどもホスピスは「実現可能」なものに感じられました。愛知や北海道、仙台など、各地で続々とプロジェクトも立ち上がり、「憧れ」は「決意」へと変わりました。
宮本さんは21年に沖縄県に戻り、仲間と共にイベントや講演会を開きながら、こどもホスピスのことを発信すると共に、LTC(生命を脅かす病気)の子どもたちの「やりたいこと」を叶える活動を続けています。
21年の夏には、「海で魚をモリで突いてみたい」という男の子の希望を叶えました。男の子は進行した小児がんで、泳ぐことも歩くことも難しいため、インストラクターや複数の大人が付き添う形で実現。男の子はインストラクターに抱えられた状態で海に浮かび、目の前でプロの漁師が魚を捕獲し、その魚を男の子に渡してくれました。
男の子は数ヵ月後に旅立ちましたが、家族からは感謝の言葉が伝えられました。
「体験の後、お母さんが『息子が驚くほど成長した』とお話しされていました。麻痺した手で友達に『男たるもの』とメッセージを書いたり、いろいろなことを自分で決めるようになったと」
LTCの子どもたちは周囲を変える力がある
ところでプロジェクト名「沖縄こどもホスピスのようなものプロジェクト」に、「のようなもの」とあるのは、なぜでしょう。
「施設を作ることだけが目的ではなく、施設を利用するLTCの子どもたちと、健康な子どもたちや地域との接点を作り、真にインクルーシブな社会にしたいんです」
数年前、宮本さんが担当した小児がんの女の子が、「学校に遊びに行きたい」と言うので、家族と付き添った際のことです。
病気は厳しい状態だったものの、約1年ぶりに小学校の友達と会えて大喜びでした。給食も食べることになり、一つの班に混ざって食べ始めたときでした。
別の班から「あの子、死ぬんでしょ?」という声が聞こえ、誰かが「しっ!」と遮りました。それが聞こえたかどうかはわかりませんが、帰り道、女の子は「すっごく楽しかった」と笑顔を輝かせていました。