加茂水族館名誉館長・ 村上氏なくして世界一の「クラゲ水族館」は誕生しなかった!

吉川英治文化賞・村上龍男さんが語る 加茂水族館が「クラゲ水族館」と呼ばれるまで 〜前編〜

加茂水族館名誉館長:村上 龍男

加茂水族館名誉館長・村上龍男さん。クラゲとの波乱万丈の人生を語っていただきました。  写真提供:村上龍男
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70種類のクラゲに出合える“クラゲ水族館”として、国内外から来訪客が絶えない加茂水族館。

山形県鶴岡市加茂の海沿いに位置する小さな水族館を、多くの困難を乗り越えてクラゲの展示種類世界一を誇る施設に育てあげたのが、50年近くにわたり館長として加茂水族館を運営してきた村上龍男さんです。

その村上さんが、これまでの活動を讃えられて、2023年4月11日に第57回吉川英治文化賞を受賞されました。

吉川英治文化賞受賞を機に、改めて村上さんにインタビュー。クラゲ水族館と切り離せない、村上さんの波乱万丈の人生、前編です。

(全2回の前編)

吉川英治文化賞のスピーチ

村上さんの人生を振り返っていただく前に、まずは吉川英治文化賞授賞式での村上さんのスピーチを一部ご紹介いたします。

村上龍男さん(以下、村上さん):受賞には、とにかくまず、驚きましたね。これまでにもいろいろな賞をいただいたことがありますが、こんなに嬉しいことはありません。

吉川英治賞授賞式でスピーチをする村上さん。

村上さん:加茂水族館での50年近い勤務は波乱の歴史で、涙なしには語れないほどたくさんのことがありました。苦しい思いをしたこともあります。私が加茂水族館の営業をしても、誰も相手にしてくれない時代もありました。

しかし、今は加茂水族館には、日本中からお客さんが来てくれるようになりました。地域に貢献できるし、何よりも「やったな」という達成感を味わうことができました。今回の受賞を、鶴岡市のみんなで喜んでおります。

高校の校長先生の「勉強するな」に救われた

──それでは村上さんの、子ども時代のお話からお聞きしたいと思います。幼少期は、どのような子どもでしたか?

村上さん:子どものころ、小学校4年生までは勉強もよくできていたんです。ところが担任の先生が変わってから、勉強が嫌いになってしまいました。また母が私に過大な期待をかけてきたことも苦しかったですね。

というのも、父までは代々医者で、その当時は「医者の息子は、医者になる」というのが暗黙の了解でした。父は軍医として満州に行き、そこで亡くなったという知らせが来たのですが、母はそれを信じず、「父はどこかで生きていて、必ず帰ってくる。それまで息子を立派に育てて、父を迎えるのだ」という意識がずっとあったのです。

私にはそれがプレッシャーでね。中学生になっても、学校の先生とソリが合わず、学校に行くのが苦痛で仕方ありませんでした。そんなわけで勉強はまったくせず、このころは好きな釣りに情熱を燃やしていました。

──村上さんにとっての最初の転機が、高校進学だったそうですね。

村上さん:はい。勉強をしていませんから、第一志望の高校には落ちてしまいました。さすがに私も「どうしたらいいかな」と困ったのですが、たまたまラジオで山の中にあるという『基督教独立学園』という高校の情報が耳に入りまして。
学校の先生が、私をそこの学校まで連れていってくれるというので、3月の末、雪が1mぐらい積もっている中を8キロ歩いて、その学校へ向かいました。

現地に着いたら、もう夜で。そこにはボロボロの廃屋のような建物があったのですが、それが学校だと聞かされてびっくりしました。全寮制で本当は定員に達していたのですが、同行の先生が頼み込んでくれて、なんとか入れてもらえることになりました。

そして入学式の日、忘れもしないのですが、校長先生が生徒への訓辞で「勉強をするな」と言ったんです。それを聞いた私は「あぁ、救われた!」と思いましたね。

──学校の校長先生としては、ユニークな発言ですね!

村上さん:実は「勉強するな」の前に、別の言葉があって。本当は「大学受験をするための勉強はするな」だったんですけど(笑)。

受験戦争はあまりにも激しく、人格形成や人間としての成長には役立たない。だから受験勉強は止めろ、というのが校長先生のお話だったのですが、私はその言葉を素直に受けて、授業以外の勉強は一切しませんでした。

学校は深い山の中にありましたから、学校のすぐ下を流れる大きな川で魚捕りをしたり、近所に暮らす親父さんと猟に行ったりして、自然の中でのびのびと過ごしました。このときの自然相手のさまざまな経験が、大人になってから本当に役に立ったと実感しています。

──その後、山形大学農学部に進学されています。この進路はどのようにして決めたのでしょうか?

村上さん:高校3年生の10月ごろ、ただ楽しく毎日過ごしていたら、校長から「この先はどうするんだ」と言われてね。特に決めていないと答えたら、新聞の切り抜きを見せてくれました。

それは当時、県内に最大のダムが作られ、その生物相がどのように変化するかの調査結果が掲載されていたものだったんです。それを調べたのが、山形大学農学部の先生でした。

校長先生が「魚捕りが好きだから、この大学はどうだ?」と勧めてくれて。私は、「面白そうだな」と受験したものの、まったく勉強をしていませんから、当然不合格です(笑)。そこで自宅浪人をして、翌年再度受験をしたら、ヤマを張った部分が当たって、合格できました。

そして、大学で魚の勉強をして、数年後。大学時代の恩師が加茂水族館で働くことを勧めてくれたのです。高校受験に失敗したことで、そこから私の本当の人生の扉が開いたと思っています。

開館当時の旧・加茂水族館。  写真提供:村上龍男

村上さん:人生、思うようにいかなくて失望することもありますが、ひとつの扉が閉ざされると、必ず別の扉が開くんです。だから置かれた環境で一生懸命に過ごしていれば、自ずと最良の人生になっていく。世の中とはそういうものなのだと、ここまで歳を重ねてきて分かりました。

27歳で館長を命じられたときは不安しかなかった

──1966年、村上さんが26歳のときに加茂水族館に入り、翌1967年には27歳の若さで館長に任じられています。当時はどのような思いでしたか?

村上さん:水族館に入って一年目は飼育係として、餌をやったり掃除をしたり、近くの海に展示用の魚を捕まえに行ったりしました。忙しい時期はレストランや売店を手伝ったりもしましたし、とにかくなんでもやっていましたね。

奥が村上さん。初めて加茂水族館に勤務した26歳のころ。  写真提供:村上龍男

村上さん:そして加茂水族館に来て翌年、水族館が鶴岡市から民間会社に売却され、残ったスタッフの中で私が一番年上だったので、「館長をやれ」と言われました。「俺が館長? どうするんだ?」と正直、不安でいっぱいでしたよ。

当時、水族館自体はわりと繁盛していて、年間数万人は客が入っていた。ところが翌年、隣県の新潟や秋田に立派な水族館ができて、客がそちらに流れてしまったんです。そこから苦労が始まりましたね。

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